蜩(ひぐらし)の鳴く郷で
夕暮れ時、熱田の杜から吹き抜ける風が、ほてった肌に心地よく涼しさを運んでくる。
どこからか、夏の終わりの訪れを告げるような蜩の鳴き声がかすかに響き始めた。
母・静が用意してくれた夕餉の膳には、故郷の味覚が並んでいた。
東京の官舎でも燈が日頃から腕をふるっているお馴染みの赤だしだが、本場・熱田の実家で口にするそれは、どこか懐かしく、旅の疲れをじんわりと癒やしてくれる。
香ばしく焼き上げられた川魚など、母の温もりが詰まった料理の数々に、頼たちの一行は箸が進んだ。
「やはり、こうしてみんなで食べる味はまた格別だね」
頼が椀を持ち上げて言うと、燈も嬉しそうに頷いた。
「そうですね。私も東京の台所でいつも赤だしを作っていますけれど、やっぱり故郷の味は安心します」
その隣で、絢が首をかしげながらお椀をのぞき込む。
「うん、おいしいね!」
絢が笑顔を見せると、継も、大好きなご飯に汁をかけてもらい、夢中でスプーンを握りしめている。
その食べっぷりの良さに、祖母である静と恵子は
「まあ、よく食べるねえ」
「元気なことだわねえ」
と目を細め、頬を緩めっぱなしだった。
食事が終わり、片付けが一段落した夜の帳が降りる頃。
縁側に並んで腰掛けた頼の隣に、保が冷えたビール瓶を二本持ってやってきた。
「お疲れさま、頼くん。いやあ、ドイツの情勢はひどかった。あのヒットラーが全権を握り、野放図な軍備拡張を始めたあちらの連中は、まるで自ら好んで破滅へ突っ走っているような、異様な狂気に満ちていたよ」
ちゃぶ台の上のガラスコップに、シュワシュワと心地よい音を立てて琥珀色の液体が満たされていく。
保の言葉に、頼は静かにグラスを受け取り、冷えたガラスの感触を手のひらで確かめた。
「保さんも、急な帰国で本当に大変でしたでしょう。ヨーロッパの空気は、そこまで緊迫していたのですか」
保は、座敷のほうで母親たちに囲まれながら、キャッキャと無邪気にはしゃぐ絢と継の姿に目を細めた。そして、グラスを傾けながら、鋭い眼光を頼に向ける。
「ああ、そうだ。ドイツの連中を見ていて確信したことがある。狂気が国を飲み込むとき、それを止めるのは綺麗事じゃない。冷徹な理性と、現場を支える強固な『防壁』だ」
保はそこで一度言葉を切り、まっすぐに頼を見た。
「君が日本でどんな役回りをしているのか、細かくは聞かん。だが、君が東京の重い枢機で何を背負い、どれだけ軍部の暴走を押し留めているのか、、、私には分かる。君の踏ん張りこそが、この国の最悪の崩壊を辛うじて防いでいる盾なのだよ。どうか、体を壊してはいけないよ」
義父であり、第一線の学者でもある保からの確信に満ちた言葉。
それは、頼が霞ヶ関で孤独に戦い続けてきた苦闘が、決して無駄ではないという何よりの証明だった。
頼は静かにグラスを見つめ、微かに、しかし力強く笑った。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、心も少し軽くなります」
夜風が縁側の風鈴を揺らし、チリンと涼しい音を鳴らす。
やがて、旅の疲れがピークに達した子どもたちが、あくびをしながらトロンとした目をし始めた。
障子を閉め切った奥の静かな部屋で、布団を並べた子供たちは、心地よい寝息を立ててすでに夢の中へと落ちていっている。
隣で燈が、幸せそうに眠る子どもたちの柔らかな寝顔を見守りながら、小さく囁いた。
「頼さん、本当に帰ってきてよかったですね」
「あぁ、、、そうだな」
窓の外の夜空には、澄んだ星が穏やかに瞬いていた。
帝国の運命を揺るがす五相会議も、石原莞爾のシステム論も、霞ヶ関の泥沼の政争も、この瞬間だけは遠い世界の出来事のようだった。
だが、頼の脳裏にあるその歯車は、もう止まらない。
(盆が明ければ、すぐに東京に戻る。五相会議、そして本格的に動き出す『国策の基準』の調整、、、あの狂気の奔流が来るというのなら、受けて立つさ。俺が築いた防壁を、奴らを一歩たりとも通す気はない)
眠る子どもたちの小さな背中にそっと手を伸ばしながら、頼の瞳に宿ったのは、迷いのない不敵で強い決意の光だった。
守るべきもののために、彼は戦う。
この平穏な夏の夜を脅かすすべての狂気を、霞ヶ関の只中で完全に叩き潰すために。




