杜(もり)の風
1936年(昭和11年)8月中旬。
山本の強引な慈悲と、久保田の支えによってどうにか仕事を片付け、迎えた出発の朝。
東京駅から発つ特急列車「富士」の窓から、激しく吹き付ける夏の熱気が車体を揺らした。
長旅の疲れを少しも感じさせない様子で、5歳になった絢と、まだあどけなさが残る2歳の継が、ボックス席の窓ガラスに張り付いている。
「お父さん、見て! 大きな駅!」
「あそこ、煙が出てるよ!」
絢の声にはしゃぐように継が続き、車内は小さな子供たちの活気で満たされていた。
向かいの席に座る燈は、荷物の棚を整えながら、ふぅと柔らかい息を吐いた。
「東京を離れるのは、結婚の時以来ですね、、、なんだか、夢のようです。山本閣下には感謝しきれませんね」
「ああ、、、久保田さんにも返しきれない恩を作った。東京のコンクリートと軍務に縛り付けられていたからこそ、この休暇が余計に染みるよ」
頼は、妻の膝元で揺れる小さな手荷物と、自分たちの足元に積み上げられた手土産の包みを見つめながら、穏やかに目を細めた。
霞ヶ関の重苦しい空気、石原莞爾の狂気的な執念、そして欧州から届く不穏な戦争の足音——。
それらの計算式や政治の波から、束の間、完全に脳みそを切り離す。
いま、この瞬間だけは、彼は一人の夫であり、二人の子供の父親だった。
列車は東海道をひた走り、やがて名古屋駅へと滑り込む。
ホームに降り立った瞬間、東京とは違う、湿り気を帯びた濃密な夏の熱気が肌を包み込んだ。
「あついね、お父さん!」
絢が汗を拭う頼の服の裾をギュッと掴む。
改札を抜けたその先で、待ち構えていたように大きく手を振る三つの影があった。
「頼くん! 燈!」
声を弾ませて真っ先に駆け寄ってきたのは、ドイツからの急きょ帰国を終えたばかりの保だった。
その傍らには、穏やかな笑みを浮かべる燈の母・恵子、そして頼の母・静が並んで立っている。
「お母さん、保さん、恵子さん。ただいま帰りました」
頼が深く頭を下げると、母・静はみるみるうちに目を潤わせ、わなわなと震える両手で口元を押さえた。
「まあ!本当に、よくぞ無事に帰ってきてくれて、、、!」
静は駆け寄ると、まずは頼ではなく、絢と継をしっかりと抱きしめた。
「おばあちゃんだよ、分かるかい? まあ、なんて可愛いの、、、」
継は少し見慣れない顔に人見知りをして、頼のズボンの後ろに隠れてしまったが、絢はすぐに祖母の温かさに甘えるように、その首にしがみついた。
「お母さん、お元気でしたか」
燈が恵子と手を握り合い、安堵の笑みを浮かべる。
恵子もまた、愛おしそうに娘の頬に触れた。
「燈、よく頑張って東京で暮らしていたねぇ。顔を見て安心したわ。それに、絢も継も、こんなに大きくなって、、、さあ、保さんも早く抱っこしてあげてください」
恵子に促され、保はしゃがみ込むと、隠れていた継の前にそっと両手を差し出した。
「おや、継かい。おじいちゃんだよ、ほら、怖くないぞ」
保がポケットから取り出した木彫りのおもちゃを差し出すと、継はその珍しさに惹かれたのか、恐る恐る小さな手を伸ばした。
その微笑ましいやり取りに、周囲の大人たちから思わず笑みがこぼれる。
「さあ、いつまでも駅のホームで立ち話をしていないで、熱田の家に帰ろう。冷たい麦茶もスイカも用意して待っているからね」
静が音頭を取り、一同は名古屋駅から市電(路面電車)の停留所へと向かった。
ガタンゴトンと心地よい鉄の響きを立てて走る路面電車の窓から、見慣れた名古屋の街並みが流れていく。
風が車内を通り抜け、長旅の疲れを少しだけ和らげてくれた。
やがて「熱田神宮前」の電停で下車し、神宮の杜から吹く涼やかな風を感じながら懐かしい町並みを歩く。
ほどなくして、見慣れた吾妻家の門が見えてきた。
実家の門をくぐり、使い慣れた縁間に足を踏み入れると、懐かしい畳の匂いと、庭の木々を渡る風の音が迎えてくれる。
東京の喧騒が嘘のように遠い。
「さあ、まずはゆっくり荷物を置きなさい。今すぐお昼の支度をするからね」
静と恵子が手際よく台所へ入り、威勢よく水仕事を始める。
保も「私は荷物持ちを手伝うよ」と笑いながら頼に声をかけた。
旅の汗を拭いながら縁側で待っていると、ほどなくして、井戸水でキリッと冷やされた冷麦が涼しげなガラスの器に山と盛られて運ばれてきた。
薬味の生姜と刻みネギの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「さあ、よく冷えているうちに召し上がれ」
ツルツルと心地よい喉ごしの冷麦を、みんなで賑やかにすする。
長旅ですっかりお腹を空かせていた絢と継も、お母さんに手伝ってもらいながら夢中で口に運んでいる。
食後には、恵子と静が切り分けてくれた真っ赤なスイカに絢と継がかぶりつき、顔中を汁だらけにして笑い合う。
その無邪気な姿に、静も恵子も目を細めて相好を崩した。




