第九話 人類最強、幼女の前ではただの人間だった
人類最強。
その称号を持つ者は、世界にただ一人しかいない。
探索者協会が公式に認定した、現代における人類の頂点。
数多のダンジョンを踏破し、幾度となく世界の危機を退け、国家規模の災害指定を受けた魔物すら単独で討伐してきた怪物。
その名は、神代蓮司。
年齢は三十二歳。
短く整えられた黒髪に、鍛え抜かれた長身。精悍な顔立ちと、隙のない佇まい。
その姿だけを見れば、どこにでもいる優秀な男に見えるかもしれない。
しかし、彼が歩んできた道を知る者ならば、決してそんな感想は抱かないだろう。
彼は文字通り、人類の頂点に立つ存在なのだから。
そして今、その神代蓮司は一色家の門前に立っていた。
「……ここか」
目の前に広がるのは、広大な敷地を持つ屋敷。
門の前には警備員が二人。敷地内にも複数の人間の気配がある。
一見すれば、国内でも裕福な一族が暮らす邸宅にしか見えない。
だが、神代の意識は屋敷の奥へと向けられていた。
そこにいる存在を感じ取ろうとする。
しかし――何も分からない。
魔力の流れも、生命反応も、気配すらも。
まるで、そこだけ世界から切り離されているかのようだった。
「……妙だな」
神代は眉を寄せた。
彼は人類最強と呼ばれるだけの実力を持っている。
相手がどれほど強大な魔物であろうと、その力量をある程度は見極められる自信があった。
だが、今回ばかりは違う。
屋敷の中にいる存在は、強いとか弱いとか、そういう尺度で測れるものではなかった。
自分の感知能力が通用していないのか。
それとも、そもそも感知するという行為そのものが意味をなさないのか。
「お待ちしておりました。神代様」
そのとき、門の内側から一人の女性が現れた。
一色紫苑。
国内でも屈指の実力者であり、一色雅の代行者を名乗る女性だ。
「突然の訪問をお許しいただきたい」
「いえ。協会から事前に連絡はいただいております」
「それは助かる」
神代は軽く頭を下げた。
紫苑は表情を崩さないまま、彼を屋敷の中へと案内する。
その途中、彼女はふと足を止めた。
「ただし、一つだけお願いがございます」
「何でしょう?」
「雅様に対して、くれぐれも失礼のないように」
「……分かりました」
神代はわずかに眉を動かした。
人類最強と呼ばれる自分に対して、まるで子供を諭すような忠告。
しかし、不思議と不快感はなかった。
紫苑の表情が真剣だったからだ。
彼女は脅しているのではない。
忠告しているのだ。
自分がこれから会う相手に対して、何をしてはいけないのかを。
神代はそれ以上何も尋ねず、紫苑の後に続いた。
◆
「雅様。お客様がお見えです」
「ん」
リビング。
一色雅はソファに座っていた。
テーブルの上には、空になったプリンの容器が二つ。
そして、その隣には三つ目のプリン。
雅はスプーンを手に、実に幸せそうにそれを食べていた。
「お邪魔します」
神代が部屋に入る。
その瞬間。
彼は息を呑んだ。
そこにいたのは、白髪の幼い少女だった。
透き通るような白い肌。赤い瞳。華奢な身体。
どう見ても、十歳にも満たない子供にしか見えない。
しかし。
神代の本能が告げていた。
目の前の少女は、決して子供などではない。
見た目に惑わされてはいけない。
この少女を前にして、迂闊な行動を取ってはいけない。
それだけは、はっきりと理解できた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
雅はプリンを食べながら返事をした。
それだけだった。
人類最強を前にしても、特別な反応はない。
驚きも、警戒も、興味もない。
ただ、プリンを食べている。
「私は神代蓮司と申します。探索者協会の依頼で、あなたにお会いしに来ました」
「そう」
「あなたのお名前を伺っても?」
「一色雅」
「……それだけですか?」
「それだけだけど」
神代は少し困ったように笑った。
目の前の少女は、あまりにも普通だった。
少なくとも、表面上は。
「あなたは探索者ではないと聞いています」
「違うよ」
「それなのに、第七階層の異常を引き起こしたのはあなたなのですか?」
「そうだね」
「……理由を伺っても?」
「寝床に変なのがいたから」
雅はスプーンを動かし、プリンを一口すくう。
「邪魔だったから片付けた」
あまりにも簡潔な説明だった。
神代は言葉を失う。
第七階層。
それは、通常の探索者では到達することすら困難な領域だ。
そこに存在していた魔物は、協会の調査によれば、少なくとも災害指定級に相当するものだった。
それを片付けた。
まるで、部屋の掃除でもしたかのように。
「……あなたは、自分がどれほど危険な存在なのか理解していますか?」
「知らない」
「知らない、ですか」
「危険かどうかなんて、私には関係ないし」
雅はプリンの最後の一口を口に運んだ。
そして、空になった容器をテーブルに置く。
「それより、あなたは何しに来たの?」
「あなたの実力を確かめに」
「ふうん」
雅は神代を見た。
ただ、それだけだった。
神代の背筋に冷たいものが走る。
何もされていない。
殺気を向けられたわけでも、魔力を放たれたわけでもない。
それなのに、彼は理解した。
自分は今、目の前の存在に見られている。
人間が道端の石ころを眺めるように。
あるいは、虫の動きを観察するように。
そこには敵意すらない。
ただ、興味のないものを一瞥するような視線だった。
「……なるほど」
神代は小さく息を吐いた。
「私では、あなたの実力を測ることすらできないようですね」
「そう?」
「ええ。少なくとも、私が知る限り、あなたのような存在はいません」
「そうなんだ」
雅は興味なさそうに答えた。
その態度に、神代は苦笑する。
人類最強という称号は、目の前の少女には何の意味もないらしい。
「一つだけ、聞かせてください」
「なに?」
「もし、この世界にあなたの敵となる存在が現れたら、どうしますか?」
「敵?」
雅は少し考えた。
そして、あっさりと言った。
「邪魔なら消すよ」
それだけだった。
世界を守るためでも、人々を救うためでもない。
ただ、自分の邪魔になるから。
神代はその答えを聞き、目を伏せた。
この少女は、人間の味方ではない。
だが、敵でもない。
人間という尺度そのものが、彼女には通用しないのだ。
「……ありがとうございました。お時間をいただき感謝します」
「うん」
「またお会いすることがあるかもしれません」
「そう」
雅はもう神代を見ていなかった。
視線はテーブルの上にある空のプリン容器へ向いている。
「紫苑」
「はい、雅様」
「プリン、もうない?」
「ございます。後ほどお持ちいたします」
「じゃあ、お願い」
「かしこまりました」
神代は静かに立ち上がった。
屋敷を出る直前、彼は一度だけ振り返る。
そこには、いつも通りの穏やかな光景があった。
白髪の少女と、その傍らに控える女性。
そして、庭で静かに佇む、異様な気配を持つ男。
あれほどの存在が、あの少女を母上と呼んでいる。
神代は改めて理解した。
人類最強という称号は、あくまで人類の中での話なのだと。
◆
「どうでした?」
帰りの車内。
同行していた協会職員が、神代に尋ねた。
「どうもこうもない」
「何か分かりましたか?」
「分かったことならある」
神代は窓の外を眺めながら答える。
「彼女は、俺たちがどうこうできる相手じゃない」
「……それほどですか?」
「ああ」
神代は目を閉じた。
「俺が全力を出したところで、彼女にとっては小さな虫が飛んでいる程度だろうな」
協会職員は黙り込んだ。
人類最強の口から出た言葉とは思えなかった。
「それと、もう一つ」
「はい」
「彼女の機嫌を損ねるな。絶対にだ」
「分かりました」
「これは冗談でも、大げさに言っているわけでもない」
神代の声は、いつになく真剣だった。
「彼女に敵意がないからといって、こちらから不用意に近づいていい理由にはならない。必要以上に刺激するな」
その忠告は、すぐに協会上層部へと伝えられることになる。
そして、探索者協会は一色雅への対応方針を改めることになった。
――可能な限り、干渉しない。
それが、人類最強の探索者が持ち帰った最も重要な結論だった。
◆
その日の夜。
一色家の庭。
雅は縁側に座り、温かい紅茶を飲んでいた。
夜風が庭の木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響く。
「雅様」
「なに?」
「本日の来客はいかがでしたか?」
紫苑が尋ねる。
「普通の人間だった」
「……そうですか」
紫苑は少しだけ困った顔をした。
人類最強を普通の人間と評するあたり、雅の価値観はやはり独特である。
もちろん、雅にとっては特別な意味などない。
強い人間も、弱い人間も、結局は人間。
その程度の認識なのだろう。
「母上」
庭にいたアスペーダが口を開く。
「何か気になることでも?」
「別に」
雅は紅茶を一口飲む。
「ただ、少し変な感じがする」
「変な感じ、ですか?」
「うん」
雅は空を見上げた。
夜空には、いつもと変わらない星々が輝いている。
だが、その奥。
世界の向こう側から、何かがこちらを覗いているような気配があった。
遠い。
けれど、確かに存在している。
何かが、こちらへ近づこうとしている。
「……まあ、いいか」
雅は興味を失ったように視線を戻す。
今は紅茶の方が大切だった。
◆
その頃。
世界のどこでもない場所。
空間が、音もなく裂けた。
そこから、一人の青年が転がり出る。
「ぐっ……!」
青年は地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
身にまとっているのは、見慣れない意匠の衣服。
腰には見たこともない剣が吊られている。
そして、その身体には無数の傷が刻まれていた。
「ここは……どこだ?」
青年が顔を上げる。
目の前に広がるのは、見知らぬ森。
空には二つの月が浮かんでいた。
彼の知る世界ではない。
間違いなく、異世界だった。
「転移……したのか?」
青年は震える手で胸元を押さえる。
そこには、ひび割れた小さな結晶があった。
彼は知らない。
自分が今、どれほど危険な場所に迷い込んだのかを。
そして、この世界に来てしまった理由も。
ただ一つ。
彼の背後にある空間の裂け目。
その向こう側から、何かがこちらを見ていた。
『――見つけた』
声が響く。
青年は勢いよく振り返った。
「誰だ……?」
『ようやく、道が繋がった』
その声には、喜びとも安堵ともつかない感情が含まれていた。
青年が何かを問い返すよりも早く、空間の裂け目はゆっくりと閉じていく。
最後に残ったのは、得体の知れない気配だけだった。
青年はしばらく、その場から動けなかった。
そして、遠く離れた一色家。
雅の手元にあった紅茶の表面が、一瞬だけ波紋を描いた。
「……あ」
雅はカップを見下ろす。
「紅茶が冷めた」
彼女は少しだけ不満そうに呟いた。
世界の危機が迫っていることなど、今の雅にはどうでもよかった。




