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第十話 異世界から来た勇者



青年の名前は、レオンハルト・ヴァイス。


年齢は二十一歳。


彼は、異世界において一度は勇者と呼ばれた男だった。


もっとも、今となってはその称号に意味などない。


彼の故郷は滅びた。


王都は炎に包まれ、魔王を封じていた聖域は崩壊し、世界を守っていた神々の声すら聞こえなくなった。


人々が築き上げてきた文明も、長い歴史も、何もかもが失われた。


そして、最後に残された希望。


それが、彼の胸元にある小さな結晶だった。


「……ここは、本当にどこなんだ」


レオンハルトは、見知らぬ森の中を歩いていた。


頭上には、二つの月。


見慣れない植物に、聞いたこともない鳥の鳴き声。


空気に含まれる魔力の質も、彼の知る世界とは明らかに異なっていた。


少なくとも、ここは自分の故郷ではない。


「転移……なのか?」


そう考えてみても、答えは出ない。


気がついたときには、すでにこの森にいたのだ。


誰かに転移させられたのか。


それとも、胸元の結晶が何らかの作用を引き起こしたのか。


今の彼には判断できなかった。


それでも、まだ諦めてはいない。


故郷は失われた。


守るべき人々も、共に戦った仲間たちも、もういない。


だが、胸元の結晶が砕けずに残っている以上、何か意味があるはずだった。


「まずは人を探さないと……」


そう呟いた直後。


森の奥から、獣の唸り声が聞こえた。


「グルルル……」


レオンハルトは即座に腰の剣を抜いた。


茂みの向こうから現れたのは、全長三メートルほどの黒い獣。


鋭い牙に、赤く濁った瞳。


身体の表面には、黒い靄のようなものがまとわりついている。


見たことのない魔物だった。


「魔物か!」


獣が地面を蹴る。


その巨体からは想像できない速度で、レオンハルトへと迫った。


しかし、彼は慌てない。


身体に魔力を巡らせ、相手の動きを見極める。


そして――。


「はっ!」


一閃。


黒い獣の首が宙を舞った。


巨体が地面に倒れ、周囲の草木を揺らす。


「……ふう」


勇者と呼ばれた男にとって、この程度の魔物は敵ではない。


しかし、問題はそこではなかった。


倒れた獣の身体から、黒い煙のようなものが立ち上っていたのだ。


「これは……?」


煙は空中で渦を巻き、何かの形を作ろうとしている。


魔物の残滓だろうか。


いや、それにしては異様だった。


レオンハルトが剣を構え直した、その瞬間。


胸元の結晶が淡く光った。


『――近い』


「っ!」


声が聞こえた。


誰の声かは分からない。


ただ、その声は確かに結晶の中から響いていた。


『我らの始祖がいる』


その言葉と同時に、黒い煙が霧散する。


森には再び静寂が戻った。


「始祖……?」


レオンハルトは胸元の結晶を見つめた。


結晶の輝きは、すでに失われている。


しかし、今の声は確かに聞こえた。


そして、その声には恐怖も、敵意もなかった。


まるで、長い年月を経てようやく探し求めていたものを見つけたかのような、奇妙な感情が込められていた。


「一体、何なんだ……」


彼には、まだ何も分からなかった。


◆


翌日の昼。


一色家のリビングでは、雅がクッキーを食べていた。


テーブルの上には紅茶の入ったカップと、焼き菓子の乗った皿。


雅はソファに腰掛け、実にのんびりとした様子でクッキーを口に運んでいる。


その傍らでは、紫苑がタブレットを操作していた。


「雅様。少々よろしいでしょうか」


「なに?」


「昨夜、国内のダンジョンで妙な現象が確認されました」


「ふうん」


「複数のダンジョンで、魔物が一斉に活動を停止したそうです」


「そう」


「さらに、いくつかのダンジョンでは未確認の魔力反応も観測されています」


「へえ」


雅はクッキーをもう一枚取った。


紫苑は画面を切り替え、次の情報を確認する。


「そして、こちらが問題なのですが」


「うん」


「都内で、身元不明の青年が保護されたそうです」


「それが?」


「彼は、自分が異世界から来たと主張しているそうです」


雅の手が、ぴたりと止まった。


紫苑はその反応を見逃さなかった。


「……雅様?」


「異世界?」


「はい。言語も文化も、現在確認されているどの国とも一致しないとのことです」


「ふうん」


雅は再びクッキーを口に運んだ。


「珍しいね」


それだけだった。


しかし、紫苑は内心で少し驚いていた。


雅が何かを珍しいと口にすること自体、あまり多くない。


「協会から接触の依頼が来ています。彼が保護された場所は、以前から異常反応が確認されていたダンジョンの近くだそうです」


「私に関係あるの?」


「現時点では分かりません」


「じゃあ、断っていいよ」


「……かしこまりました」


紫苑はタブレットに目を戻した。


そのときだった。


「母上」


庭の方から、アスペーダの声が聞こえた。


「少し、よろしいでしょうか」


「なに?」


「妙な気配が近づいております」


「そう」


「人間ではありません。ですが、魔物とも違う」


アスペーダの声はいつも通り落ち着いていた。


しかし、その奥にはわずかな警戒が感じられた。


「母上に害をなす可能性があります。私が排除しても?」


「好きにしていいよ」


「承知しました」


紫苑が顔を上げる。


「アスペーダさん。相手の規模は?」


「分かりません。ただ……」


庭の向こうを見つめるアスペーダ。


その視線の先には、何もない。


少なくとも、紫苑の目にはそう見えた。


「私が知る限り、あのような気配は初めてです」


「そうですか……」


紫苑はわずかに表情を引き締めた。


アスペーダが警戒するほどの存在。


それは、人間社会の常識で考えれば、相当な脅威であるはずだった。


しかし。


「じゃあ、面白いものなのかもね」


雅はクッキーを食べ終え、ソファに身体を預けた。


「雅様、興味がおありなのですか?」


「別に。面白かったら見ればいいし、つまらなかったら寝る」


「……そうですか」


紫苑は小さく息を吐いた。


どうやら、今回も雅本人が動くつもりはないらしい。


◆


同じ頃。


探索者協会の特別保護施設。


レオンハルトは、用意された部屋の中で椅子に座っていた。


部屋の外には警備員が二人。


窓には特殊な結界が張られ、室内には監視用の機器まで設置されている。


どうやら、この世界の人間たちは自分を警戒しているらしい。


「……当然か」


彼は小さく呟いた。


突然現れた異世界人。


しかも、武器を持っている。


警戒されない方がおかしい。


ただ、彼自身も困惑していた。


ここはどこなのか。


元の世界へ帰る方法はあるのか。


そして、胸元の結晶が示すものは何なのか。


何一つ分かっていない。


それでも、答えを探さなければならない。


自分の世界が滅びた理由。


そして、あの声が告げた『始祖』とは何なのか。


「失礼します」


扉が開いた。


入ってきたのは、白衣を着た女性だった。


「私は協会の研究部門に所属している者です。いくつか質問をさせていただきます」


「……分かりました」


女性は手元の資料を確認する。


「まず、あなたのお名前を」


「レオンハルト・ヴァイスです」


「出身地は?」


「アルセリア王国です」


「アルセリア王国……聞いたことのない国ですね」


「そうでしょう。ここは、私の知る世界ではないようですから」


女性は記録を続けた。


「あなたが持っている、その結晶についても伺いたいのですが」


レオンハルトは胸元に手を当てた。


「これは……私の世界を救うためのものです」


「救うため?」


「はい。私の世界には、古き災厄が存在していました」


女性の手が止まる。


「古き災厄?」


「人間が生まれるよりも前から存在し、神々でさえ完全には滅ぼせなかった怪物たちです」


レオンハルトは胸元から結晶を取り出した。


透明な結晶の中心には、複雑な紋様が刻まれている。


それは文字にも、魔法陣にも見えない。


まるで、何かの存在を象徴する印のようだった。


「この結晶は、災厄を封じるために作られたものです。そして……」


彼は一度言葉を切った。


「その災厄が、こちらの世界にも現れようとしている」


「それは、どういう意味ですか?」


「分かりません。ただ、こちらの世界に来てから、結晶が反応しているんです」


女性は結晶を見つめた。


その紋様を見た瞬間、彼女の顔色が変わった。


「……少し、お待ちください」


女性は結晶に触れることなく、慎重に観察する。


そして、何かを確信したように立ち上がった。


「この情報は、上層部に報告する必要があります」


「何か分かったのですか?」


「まだ何も。ただ、通常の魔道具や遺物とは明らかに異なります」


女性は扉へ向かいながら、振り返った。


「レオンハルトさん。どうか、その結晶を不用意に使用しないでください」


「分かりました」


女性が部屋を出ていく。


そして数分後。


協会の上層部へ、緊急の連絡が入ることになる。


◆


その夜。


人類の知らない領域。


十三体の古き怪物たちが、再び集まっていた。


彼らの中央には、空中に浮かぶ小さな映像がある。


そこに映し出されているのは、レオンハルトの持つ結晶だった。


『来た』


一体が呟く。


『ようやく来たか』


『あの紋様……間違いない』


『我らの始祖が、かつて世界の外へ捨てたもの』


『それが、戻ってきた』


怪物たちの間に、緊張が走る。


『あれは鍵だ』


『鍵であると同時に、封印でもある』


『かつて、あの御方が我らのために残されたもの……』


『いや、違う』


別の存在が否定する。


『あれは我らのためではない。あの御方が、不要と判断されたものだ』


その言葉に、何体かが沈黙した。


彼らは知っている。


あの御方が何かを作ることも、壊すことも、捨てることも、すべて気まぐれであることを。


そして、その気まぐれ一つで世界の在り方すら変わってしまうことを。


『……あの御方は、覚えておられるだろうか』


誰も答えない。


やがて、最も巨大な影が口を開いた。


『確かめる必要がある』


『しかし、近づくのか?』


『近づかねばならぬ』


『あの御方の機嫌を損ねるぞ』


『それでもだ』


沈黙。


十三体の怪物たちは、互いに視線を交わした。


そして、ようやく一つの結論に至る。


まずは、結晶を持つ人間を確保する。


それだけならば、始祖の機嫌を損ねることもないだろう。


そう考えたのだ。


――彼らは、まだ知らない。


雅にとって、結晶も、封印も、世界の危機も、大した意味を持たないことを。


そして、彼らがその結晶を巡って動き出すこと自体が、雅の退屈を紛らわせる出来事になるかどうかすら分からないということを。


◆


翌日の午後。


一色家。


「雅様。お客様がお見えです」


「また?」


「はい。今回は探索者協会からの依頼です」


「帰ってもらって」


「……ですが、今回は例の異世界人の方がいらしています」


雅は手にしていたクッキーを見つめた。


「昨日の?」


「はい。どうやら、雅様に会いたいと強く希望しているそうです」


「どうして?」


「それは分かりません。ただ、ご本人がどうしても雅様に会わなければならないとおっしゃっているそうです」


雅は少し考えた。


別に、会いたいわけではない。


だが、異世界から来たという人間には少しだけ興味があった。


「まあ、いいよ。入れて」


「かしこまりました」


紫苑は一礼し、応接の準備に向かった。


◆


レオンハルトは、一色家のリビングへ通された。


屋敷の中に入ってからというもの、彼は奇妙な感覚を覚えていた。


静かすぎる。


人の暮らす場所であるはずなのに、どこか現実感がない。


まるで、世界の外側に迷い込んでしまったような感覚だった。


そして、リビングの扉が開かれる。


「こちらへどうぞ」


紫苑に促され、レオンハルトは室内へと足を踏み入れた。


その瞬間。


胸元の結晶が激しく輝き始めた。


「なっ……!」


結晶が震える。


表面に刻まれた紋様が、まるで生き物のように明滅していた。


今までにない反応だった。


レオンハルトは思わず胸元を押さえる。


そして。


『――ああ』


声が響いた。


『ああ、ああ。ようやく』


レオンハルトは息を呑んだ。


結晶の中から聞こえる声。


それは、彼の世界を滅ぼした災厄の声に似ていた。


だが、違う。


もっと古く。


もっと深く。


何よりも、懐かしそうな声だった。


『我らが始祖』


その声に導かれるように、レオンハルトの視線が室内の奥へと向く。


そこには、ソファに座る一人の少女がいた。


白い髪。


赤い瞳。


幼い姿。


そして、片手にはクッキー。


彼女は結晶を見て、少しだけ首を傾げた。


「……ああ」


何かを思い出したように呟く。


「それ、昔捨てたやつかな」


紫苑が固まった。


アスペーダが目を見開く。


そして、レオンハルトは理解した。


自分が持ってきたものは、災厄を封じるための結晶ではなかった。


少なくとも、この少女にとっては。


それは、彼女がかつて何かを封じるために作ったもの。


あるいは、不要になって捨てたもの。


「……あなたは、一体……」


レオンハルトが問いかける。


雅はクッキーを一口かじった。


「一色雅」


それ以上でも、それ以下でもない。


しかし、結晶の中から再び声が響いた。


『始祖よ』


『我らを、お忘れですか』


雅は面倒そうに目を細めた。


そして、結晶をじっと見つめる。


「……ああ、うるさい」


小さく呟いた後、彼女は続けた。


「まだいたんだ、あれ」


その一言に。


世界のどこかで、十三体の古き怪物たちが一斉に震えた。


彼らが長い年月をかけて探し求めていた始祖。


その御方は、彼らの存在を忘れていたどころか。


彼らを封じるために残したものの存在すら、ほとんど覚えていなかったのだから。





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