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第八話 古き怪物たちは、始祖の再来に震えている



世界の裏側。


人類がその存在を認識していない領域。


そこには、古くから世界に存在し続けてきた者たちが集っていた。


人間の姿をした者。


獣の姿をした者。


あるいは、そもそも形という概念すら持たない者。


その数、十三。


いずれも人類の尺度では測ることのできない、神話や伝承にすら記されていない古き存在だった。


そして、その全員が一つの方向を見つめている。


「……本当に、あの御方なのか?」


沈黙を破ったのは、一体の怪物だった。


その声には、隠しきれない動揺が滲んでいる。


「間違いない」


別の存在が答えた。


「我らが始祖。あの御方の気配を間違えるはずがない」


「しかし、なぜ今になって?」


「分からぬ。長きにわたり、あの御方の気配など感じられなかったというのに」


「人間の姿をしているという話もある」


「人間?」


その言葉に、誰かが笑った。


「冗談だろう。あの御方が人間の姿など」


「事実だ」


短い一言。


それだけで、笑い声は止んだ。


しばらくの沈黙が流れる。


やがて、一体の怪物が慎重に口を開いた。


「……それで、どうする?」


「どうする、とは?」


「会いに行くのか?」


誰も答えなかった。


彼らにとって、あの御方との再会は悲願とも呼べるものだった。


長い時を経て、ようやく再びその存在を感じ取ることができたのだ。


今すぐにでも姿を拝みたい。


声を聞きたい。


そう考える者がいても不思議ではない。


しかし、誰もが一歩を踏み出せずにいた。


そして、しばらくして。


十三体の中でも最も古い存在が、静かに口を開いた。


「やめておけ」


「なぜだ?」


「忘れたのか?」


その声には、明確な恐怖が含まれていた。


「我らがあの御方に何をしたのか。そして、あの御方が我らに何をなさったのか」


誰も口を開かない。


「……あの御方は、我らにとって親であり、主であり、そして――」


一度、言葉を切る。


「我らが決して逆らってはならない存在だ」


その言葉に、誰一人として反論しなかった。


彼らは強大な存在だ。


人類の歴史など、彼らにとっては一瞬にも満たない時間にすぎない。


神々ですら、彼らの前では決して無条件に優位を保てるわけではない。


だが、それでも。


彼らには逆らえない存在がいる。


それが、あの御方だった。


「今は様子を見る。あの御方が何を望んでいるのか。それを知ることが先だ」


「……承知した」


古き怪物たちは、静かに頷いた。


彼らは待つことにした。


かつて世界を震わせた存在が、今は何を思い、何を望んでいるのか。


それを見極めるために。


その一方で。


彼らの会合を、遠くから眺めている者がいた。


世界の主神。


世界の法則を管理し、生命の循環を見守る存在。


彼は十三体の怪物たちを眺めながら、小さく息を吐いた。


「やれやれ。面倒なことになってきたな」


彼らが何を考えているのかなど、聞かずとも分かる。


あの気配を感じ取った以上、動き出すのは時間の問題だろう。


「……まあ、今のところは大人しくしているようだし、放っておくか」


そう呟いてから、主神はふと思い出したように視線を移した。


そして、誰にも聞こえない声で呟く。


「雅。君は本当に、何も覚えていないのか?」


◆


翌朝。


一色家の食卓には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。


雅は椅子に座り、朝食のパンをもぐもぐと食べている。


その向かい側にはアスペーダ。


そして、少し離れた場所には紫苑が控えていた。


そんな中、アスペーダが静かに口を開く。


「母上」


「何?」


「お願いがあります」


「何?」


雅はパンを食べる手を止めず、短く返事をした。


「しばらくの間、私を母上の護衛につけていただけませんか?」


「どうして?」


「最近、母上の周囲に妙な存在が集まり始めています」


「そう」


「念のためです。何かあってからでは遅いですから」


「いらない」


即答だった。


アスペーダはわずかに目を伏せる。


「ですが、母上」


「アスペーダ」


「はい」


「私は弱くない」


「もちろん存じています」


「じゃあ、いらない」


それ以上の説明は必要ない。


雅にとって、自分の身を守るために誰かをつけるという発想そのものが、あまりにも無意味だった。


アスペーダは少しだけ困ったような顔をした。


「……母上がそうおっしゃるのであれば」


「うん」


雅は再びパンを食べ始める。


会話はそれで終わった。


少なくとも、雅の中では。


しかし。


「紫苑殿」


「はい?」


「母上の外出時、私も同行してよろしいでしょうか?」


アスペーダは、今度は紫苑へと視線を向けた。


「それは構いませんが……」


紫苑は少しだけ考える。


雅本人から護衛を断られた以上、無理に付き添うわけにもいかない。


だが、外出時に同行する程度であれば問題はないだろう。


「雅様のご迷惑にならない範囲であれば、私から申し上げることはありません」


「ありがとうございます」


アスペーダは満足そうに頷いた。


そのやり取りを聞いていた雅だったが、特に何かを言うことはなかった。


そもそも、彼女にとってはどうでもいい話だったのだろう。


◆


昼。


一色家の庭。


そこでは、紫苑が日課の訓練を行っていた。


身体強化によって引き上げられた身体能力。


無駄のない動作。


そして、魔力を全身へと巡らせる精密な操作。


一つ一つの動作に、一切の妥協はない。


紫苑は国内でも名の知れた上位探索者だ。


しかし、彼女はその立場に満足しているわけではなかった。


雅の代行者を名乗る以上、最低限の実力は維持しておきたい。


それが彼女の日課であり、譲れないこだわりでもあった。


そんな紫苑の様子を、少し離れた場所から眺めていた人物がいた。


「紫苑殿」


「アスペーダさん?」


声をかけられ、紫苑は動きを止めた。


アスペーダはいつもの穏やかな表情を浮かべている。


「少し、お手合わせ願えませんか?」


「私とですか?」


「ええ。以前から、あなたの実力には興味がありました」


紫苑はわずかに目を細めた。


アスペーダの実力は未知数だ。


長い時を生きてきた古き魔人。


それだけでも十分に警戒する理由になる。


何より、彼は雅の息子だ。


その出自を考えれば、並の魔人であるはずがない。


「手加減はしていただけますか?」


「もちろんです。あなたに怪我をさせるつもりはありません」


「……分かりました。それでは、お願いします」


紫苑は軽く息を吐き、庭の中央へと移動した。


アスペーダもその向かい側に立つ。


紫苑は両足を開き、腰を落とした。


無駄のない構え。


対するアスペーダは、特に構える様子もない。


ただ自然体で立っているだけだった。


「では、始めましょうか」


その言葉が終わるよりも早く。


紫苑が踏み込んだ。


――ドンッ!


地面が砕ける。


強化された脚力によって、一瞬で間合いを詰めた紫苑が拳を放つ。


狙いは胴体。


相手が防御するよりも早く、確実に一撃を叩き込むための鋭い踏み込みだった。


しかし。


「……っ!」


拳は空を切った。


アスペーダは、ほんの半歩だけ横へずれていた。


たったそれだけ。


それだけで、紫苑の攻撃は完全に外されていた。


「良い踏み込みですね」


「ありがとうございます!」


紫苑は止まらない。


右拳。


左拳。


続けざまの蹴り。


さらに体勢を崩さず、肘による追撃へと繋げる。


どれも無駄がない。


国内最上位層の探索者にふさわしい、洗練された連撃だった。


しかし、そのすべてが届かない。


アスペーダは避け続けていた。


大きく動くことはない。


必要最低限の動作だけで、紫苑の攻撃をすべてかわしていく。


まるで、彼女が次に何をするのか、最初から分かっているかのように。


「……なるほど」


紫苑は一度距離を取った。


額には、わずかに汗が浮かんでいる。


一方のアスペーダには、息が乱れた様子すらなかった。


「強いですね」


「いえ。あなたも十分に優秀です」


「お世辞は結構です」


「お世辞ではありませんよ」


アスペーダは穏やかに微笑んだ。


「あなたの身体能力、魔力操作、そして戦闘技術。いずれも人間としては非常に高い水準にあると思います」


「それはどうも」


「ただ……」


そこで、アスペーダは少しだけ言葉を区切った。


「私とあなたでは、経験してきた時間が違います」


紫苑は苦笑した。


「そうでしょうね」


その差は、技術や身体能力だけでは埋められない。


紫苑も、それを十分に理解していた。


相手は人間ではない。


数え切れないほどの時を生き、数多の神秘を見てきた古き魔人だ。


そもそも、同じ尺度で比べること自体が間違っているのかもしれない。


「それでも、良い経験になりました」


「そう言っていただけると、私も嬉しいです」


アスペーダが微笑む。


そのときだった。


「二人とも」


庭の入口から、聞き慣れた声がした。


二人がそちらを見る。


そこには、白い髪の少女が立っていた。


雅だ。


「何してるの?」


「少し手合わせをしていました」


アスペーダが答える。


「そう」


雅は二人を交互に見た。


そして、紫苑へと視線を向ける。


「紫苑」


「はい?」


「負けた?」


「……はい」


紫苑は正直に答えた。


雅は特に驚いた様子もなく、短く頷く。


「そう」


それだけだった。


アスペーダがどれほど強いのか、紫苑がどれほど善戦したのか。


雅にとっては、どちらも大した問題ではないらしい。


「じゃあ、お菓子」


「え?」


紫苑は思わず聞き返した。


「買いに行く」


どうやら、雅の中ではそれが最も重要な用件だったらしい。


「承知しました。すぐに準備いたします」


紫苑が答えると、アスペーダもすぐに立ち上がった。


「私も同行します」


「うん」


雅は特に気にすることなく頷いた。


紫苑はそんな二人を見て、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。


つい先ほどまで、庭では人間と古き魔人による手合わせが行われていた。


その実力差は歴然。


紫苑自身も、アスペーダとの間にある隔たりを改めて思い知らされた。


それでも。


結局、この家で一番強いのは雅だ。


アスペーダも、紫苑も、そして世界の主神でさえ。


その事実だけは、誰にも変えられない。





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