第七話 主神と幼女、動物園に行く
「雅様。本当に動物園でよろしいのですか?」
「うん」
「他にも行きたい場所があれば、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「動物園がいい」
「承知しました」
朝。
一色家の玄関では、外出の準備が進められていた。
今回の同行者は四人。
雅、紫苑、アスペーダ、そして主神である。
本来なら、家族で出かけるだけの何でもない一日になるはずだった。
しかし、世界の主神と古き魔人まで同行しているとなれば、もはや普通のお出かけとは言い難い。
「……ところで」
紫苑は隣に立つ男へ視線を向けた。
「なぜ、あなたまでいらっしゃるんですか?」
「暇だったからね」
「神様にも仕事があるのでは?」
「たまには休息も必要だよ」
「世界の管理は?」
「代理に任せてきた」
「そんな簡単に任せていいものなんですか?」
「大丈夫、大丈夫」
主神は軽い調子で答えた。
紫苑は深く息を吐く。
この神は、雅と同じくらい自由だった。
いや、ある意味では雅以上に自由かもしれない。
世界の管理を代理に任せて、気軽に動物園へ遊びに来る主神など、紫苑の知る限り他にはいない。
「母上」
アスペーダが声をかけた。
「何?」
「車の準備ができています」
「ありがとう」
「それでは参りましょう」
四人は屋敷を出た。
◆
都内の動物園。
休日ということもあり、園内は多くの家族連れで賑わっていた。
子供たちの楽しそうな声。
園内を歩く人々の話し声。
動物たちの鳴き声。
様々な音が入り混じる中、雅は紫苑の隣を歩いていた。
その少し後ろには、アスペーダと主神が続いている。
「わあ、可愛い!」
近くにいた小さな子供が歓声を上げた。
雅はその様子を横目に見ながら、展示されている動物たちを眺めていた。
「紫苑」
「はい」
「あれは何?」
雅が指差した先には、木の上で丸くなっているレッサーパンダがいた。
「レッサーパンダですね」
「食べられる?」
「食べられますが、食べないでくださいね」
「食べるつもりはない」
「それならよかったです」
紫苑は微笑んだ。
もっとも、雅が本気で食べようと思えば、紫苑に止められる保証はない。
幸い、今のところそのつもりはないようだった。
その後も雅は、様々な動物を見て回った。
ライオン。
ゾウ。
キリン。
ペンギン。
どれも雅にとって、特別珍しい生き物ではない。
人間より大きな生き物も、奇妙な姿をした生き物も、彼女はこれまでに数え切れないほど見てきた。
しかし、興味がないわけではなかった。
普段は退屈そうにしている雅も、目の前で動く動物たちを眺めることには、それなりに楽しさを感じているらしい。
「……あれ」
ふと、雅の足が止まった。
目の前にあるのは、爬虫類館。
ガラス張りの展示スペースの中に、一匹の大きな蛇がいた。
体長は三メートルほど。
普通の動物園にいる蛇としては、かなり大きい部類だろう。
しかし、雅が見つめていたのは、その蛇の姿ではなかった。
「どうしたのですか、母上?」
アスペーダが尋ねる。
「懐かしい」
雅はガラス越しに蛇を見つめた。
その瞬間だった。
蛇が動いた。
いや、動いたというよりも、跳ね起きたと言った方が正しい。
とぐろを巻いていた大きな身体を持ち上げ、勢いよくガラスへと頭を押しつける。
「シューッ!」
「きゃっ!」
周囲にいた客たちが驚き、思わず後ずさる。
「えっ、何?」
「急にどうしたの?」
「大丈夫なの、あれ?」
異変に気づいた飼育員が、慌てて駆け寄ってくる。
しかし、蛇は周囲の人間などまるで気にしていなかった。
その目は、ただ一人。
雅だけを見つめている。
そして。
『……主』
小さな声が聞こえた。
人間には聞こえない。
雅とアスペーダ、そして主神だけが聞き取った声だった。
『主よ』
蛇は再び声を発する。
『お戻りになられたのですね』
雅は首を傾げた。
「誰?」
蛇の動きが止まった。
『……え?』
「あなた、誰?」
沈黙。
アスペーダは少し困ったように笑った。
「母上。覚えていらっしゃらないのですか?」
「知らない」
「そうですか」
主神は額に手を当てた。
「……またか」
「何?」
「いや、何でもない」
蛇はガラスに身体を押しつけたまま、震えていた。
長い年月を経て、ようやく再会できたと思った相手に、存在そのものを忘れられていたのだ。
その衝撃は、彼にとって相当なものだったらしい。
『主よ……我らは、ずっとお待ちしておりました』
「そう」
『どうか、再び我らを導いてください』
「嫌」
即答だった。
『……何と?』
「私は忙しい」
『お、お待ちください、主よ……!』
「動物園に来ているの。邪魔しないで」
蛇は沈黙した。
しばらくの間、ガラス越しに雅を見つめていたが、やがてゆっくりと頭を下げる。
『……承知いたしました』
そして、蛇は静かに元の場所へ戻っていった。
一部始終を見ていた飼育員は、首を傾げる。
「急に大人しくなった……?」
「何だったんでしょうね」
別の飼育員も不思議そうに蛇を眺めていた。
彼らには、今のやり取りなど知る由もない。
ただ、突然暴れ出した蛇が、少女を見つめた後に大人しくなった。
それだけの出来事にしか見えなかった。
◆
「雅様」
紫苑が小声で尋ねた。
「今の蛇は何だったんですか?」
「知らない」
「本当に?」
「昔、似たようなのを見た気がする」
「似たようなもの?」
「うん。もっと大きかったけど」
紫苑はそれ以上聞かなかった。
どうせ聞いたところで、雅本人が覚えていないのだから。
一方、主神は少し考え込んでいた。
「あれは古蛇族の末裔だな」
「古蛇族?」
紫苑が尋ねる。
「かつて世界の各地に存在した、古い種族だよ。今ではほとんど姿を消しているが、あの蛇はその血を色濃く受け継いでいるようだ」
「そんな種族がいたんですね……」
「ああ。君のことを知っていても不思議ではない」
主神は雅へ視線を向ける。
「ただ、あの個体は少し特殊だね」
「どういう意味ですか?」
「普通の動物ではない。長い年月をかけて神秘を蓄積している。人間の基準なら、かなり高位の存在に分類されるだろう」
「……あれが?」
紫苑はガラスの向こうを見た。
そこには、先ほどまで暴れていた蛇がいる。
今は何事もなかったかのように、大人しくとぐろを巻いていた。
「まあ、本人が動物園にいるのだから、問題はないんじゃないかな」
主神はそう言って笑った。
「それに、あの様子ならしばらくは大人しくしているだろう」
「そうでしょうか……」
紫苑は少し不安そうに蛇を見た。
あれほどの存在が、雅を見た瞬間に頭を下げた。
その意味を考えると、やはり普通ではない。
しかし、雅はすでに別の展示へ向かっていた。
「次は何を見る?」
紫苑が尋ねる。
「ペンギンがいい」
「分かりました」
主神は肩をすくめ、二人の後を追った。
「やれやれ。相変わらずだね」
アスペーダは蛇がいた展示スペースを一度だけ振り返り、静かに呟いた。
「……懐かしいものに出会えましたね」
その声には、わずかな感慨が含まれていた。
◆
その頃。
探索者協会本部。
「報告します」
調査員が理事長の前に立っていた。
「一色家に出入りしている男性について、追加の調査結果が出ました」
「名前は?」
「アスペーダ。現在の身元は確認できません」
「国籍は?」
「不明です」
「過去の記録は?」
「現代の公的な記録には、該当するものがありません」
理事長は眉を寄せた。
「本当に何もないのか?」
「はい。ただ、一つだけ気になることがあります」
「何だ?」
調査員は一枚の画像を差し出した。
古びた石板の写真だった。
そこには、黒髪の青年らしき人物が描かれている。
そして、その下には奇妙な文字が刻まれていた。
『不滅の魔人、アスペーダ』
理事長は目を細めた。
「……不滅の魔人?」
「はい。海外の古い文献に記録されていた存在です。伝承によれば、数千年前から存在する魔人だそうです」
「馬鹿な」
「私も最初はそう思いました」
「だが、この石板に描かれた人物と、監視カメラに映った青年が一致するのか?」
「顔の特徴はほぼ同じです」
理事長は黙り込んだ。
数千年前から存在する魔人。
それが、現在の日本にいる。
しかも、一色雅の家族として。
「……一色家は一体何なんだ」
誰に向けたものでもない呟きが、会議室に落ちた。
当然、答えられる者はいない。
「これ以上の調査は中止しろ」
やがて理事長は、一つの判断を下した。
「よろしいのですか?」
「ああ」
理事長は資料を閉じる。
「相手が何者なのか、もう十分に分かった」
「しかし、まだ不明な点が多く残っています」
「だからこそだ」
理事長は調査員を見据えた。
「少なくとも、こちらから手を出していい相手ではない。これ以上の詮索は、協会にとって何の利益にもならないだろう」
「承知しました」
調査員は頭を下げた。
理事長は窓の外へ視線を向ける。
一色雅。
一色紫苑。
そして、アスペーダ。
彼らが何者なのか、協会にはまだ分からないことだらけだ。
しかし、一つだけ確かなことがある。
――一色家には、決して踏み込んではならない。
理事長はそう判断していた。
◆
夕方。
動物園からの帰り道。
雅は車の後部座席で眠っていた。
小さな身体をシートに預け、静かな寝息を立てている。
その隣には紫苑。
助手席にはアスペーダ。
そして、運転席には主神が座っていた。
「……寝ましたね」
紫苑が小さく呟く。
「今日は楽しめたようだね」
主神が前を見たまま答えた。
「ええ。久しぶりに機嫌がよかったです」
「君も大変だね」
「慣れました」
紫苑は苦笑した。
雅の世話をするようになってから、もう随分と長い時間が経っている。
多少の騒動では驚かなくなったし、雅の気まぐれにも慣れた。
もっとも、彼女の気まぐれに振り回されることがなくなったわけではないのだが。
そのときだった。
アスペーダが窓の外を見た。
「……主神殿」
「何だい?」
「後ろに何かいます」
主神の表情が変わった。
「どこだ?」
「少し離れた位置です。こちらを追っているようですね」
紫苑も意識を集中させた。
しかし、何も感じない。
「私には分かりませんが……」
「人間には認識できないようにしているのでしょう」
アスペーダは淡々と答えた。
「敵意はありません。ただ、母上の存在を確認したいようです」
主神は少し考え込んだ。
「なるほど。先ほどの古蛇族と同じ系統か」
「そうかもしれません」
「どうする?」
アスペーダは後部座席で眠っている雅を見た。
「母上を起こすほどのことではありません」
「同感だね」
主神は静かにハンドルを切った。
車が交差点を曲がる。
その瞬間。
車の後方に漂っていた気配が、ふっと消えた。
「……追跡を諦めたようですね」
アスペーダが呟く。
「いや」
主神は静かに答えた。
「向こうが退いたんじゃない。こちらが少しだけ、道を変えてもらったんだ」
「なるほど」
紫苑は二人の会話を聞きながら、眠っている雅を見た。
雅は何も知らない。
いや、知っていても気にしないだろう。
彼女にとって世界の出来事など、興味の対象にすらならないのだから。
「……雅様」
紫苑は小さく呟いた。
「明日は何をしたいとおっしゃるのでしょうね」
答えはなかった。
ただ、雅の寝息だけが車内に響いていた。
そして、その穏やかな寝顔を見つめながら、紫苑は願う。
どうか明日も、今日のような平和な一日でありますように、と。
もっとも。
世界の裏側では、すでにいくつもの古き存在が動き始めていた。
彼女の願いが叶うかどうかは、まだ誰にも分からない。




