第六話 世界の主神と最古の怪物
世界には、神が存在する。
もっとも、人類が神と呼んでいるものすべてが、本当に神であるとは限らない。
信仰によって生まれた存在。
自然現象に宿った意思。
人間の理解を超えた高次の生命体。
その定義は曖昧であり、明確な境界線など存在しない。
人々が神と呼ぶ存在の中には、実際には強大な魔物に過ぎないものもいれば、神話や伝承が形を持っただけのものもいる。
しかし、この世界には間違いなく一柱の主神が存在していた。
世界そのものを管理し、生命の循環を見守り、世界の法則を維持する存在。
人類が知る神々の中でも、頂点に位置する者。
そして、彼は知っていた。
この世界には、自分と同格に近い怪物が存在していることを。
いや、正確には――自分とは異なる理によって存在する、あまりにも古い何かがいることを。
「……久しぶりに顔でも出すか」
主神は椅子から立ち上がった。
行き先は決まっている。
一色家。
◆
「雅」
「何?」
「遊びに来たぞ」
突然、リビングに男が現れた。
年齢は三十代ほど。
穏やかな顔立ちをしており、服装もごく普通のものだった。
どこにでもいる会社員と言われても、違和感はないだろう。
しかし、彼が現れた瞬間、屋敷全体の空気が変わった。
空間そのものが、彼の存在を認識したかのように静まり返る。
普段なら聞こえるはずの時計の秒針の音さえ、一瞬だけ遠のいた。
紫苑は即座に立ち上がった。
「……主神様」
「やあ、紫苑。久しぶりだね」
「お久しぶりです。突然のご訪問で驚きました」
「悪いね。事前に連絡すると、雅に断られそうだったから」
「それは……」
紫苑は返答に困った。
おそらく、その予想は間違っていない。
実際、雅はソファに座ったまま、面倒そうに男を見上げていた。
「何しに来たの?」
「冷たいな。久しぶりの再会だというのに」
「用がないなら帰って」
「用はあるよ」
男は苦笑した。
そして、雅の向かいに腰を下ろす。
「最近、君が少し派手に動いていると聞いてね」
「そう?」
「ダンジョンの魔物を消したり、探索者を押さえつけたり」
「潰してない。押しただけ」
「床にめり込ませていただろう」
「そうだった?」
「そうだったよ」
主神は小さくため息をついた。
このやり取りも、もう何度目になるだろうか。
雅は昔から変わらない。
自分の行動が周囲にどのような影響を及ぼすのか、基本的に気にしていない。
いや、気にする必要がないと思っているのだろう。
「君が動くと、世界の管理が大変なんだ」
「あなたの仕事でしょう」
「そうなんだけどね」
主神は困ったように笑った。
雅はテーブルの上にあった菓子を一つ手に取る。
そして、何事もなかったかのように口へ運んだ。
「それで?」
「少しお願いがある」
「嫌」
「まだ何も言っていないよ」
「面倒そうだから」
「……相変わらずだね」
主神は苦笑する。
彼にとっても、雅との会話は簡単ではない。
世界の法則を定め、神々を統べる立場にある自分でさえ、彼女に何かを頼むとなれば一苦労なのだから。
「最近、世界各地のダンジョンで妙な反応が起きている」
「そう」
「君の仕業ではないだろう?」
「知らない」
「本当に?」
「興味ない」
雅は菓子をもう一つ手に取った。
その様子を見て、主神は小さく息を吐く。
そして、少しだけ表情を引き締めた。
「……そうか」
その変化に、紫苑が気づいた。
「主神様。何か問題が?」
「少しね」
「どのような問題でしょうか」
「古いものが動き始めている」
その言葉に、アスペーダが静かに顔を上げた。
「古いもの、ですか」
「ああ。君も気づいていたようだね」
「ええ。昨夜、庭で妙なものを見つけました」
「そうか」
主神は頷いた。
「どうやら、封じられていたものが目を覚まし始めたらしい」
「封じられていたもの……?」
紫苑の表情がわずかに曇る。
世界各地のダンジョンで発生している異常現象。
アスペーダが庭で見つけた正体不明の存在。
そして、今度は主神までもが同じようなことを口にしている。
それらが無関係だとは思えなかった。
「それで?」
雅が尋ねる。
「私に何をしろと?」
「できれば、しばらく様子を見ていてほしい」
「嫌」
「即答か」
「面倒」
「……分かった。無理にとは言わない」
主神は肩をすくめた。
もともと、雅に協力を強制できるとは思っていない。
彼女に何かを命じることができる存在など、この世界にはほとんどいないのだから。
ただ、一つだけ伝えておくべきことがあった。
「ただ、一つだけ伝えておく」
「何?」
「今回動き始めたものは、君のことを知っている」
雅の手が止まった。
ほんの一瞬。
紫苑ですら気づかないほど、わずかな変化だった。
しかし、主神は見逃さなかった。
「……そう」
「何か心当たりは?」
「さあ」
雅は再び菓子を口に運ぶ。
「昔のことなんて覚えてない」
「そうか」
主神は困ったように笑った。
「君は本当に変わらないね」
「あなたも」
「それは褒め言葉かな?」
「知らない」
しばらく沈黙が続いた。
主神は雅の様子を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
彼女が何かを思い出したのか。
それとも、本当に何も覚えていないのか。
それを確かめる術はない。
少なくとも、今の彼女に問い詰めても意味はないだろう。
やがて雅は立ち上がった。
「紫苑」
「はい」
「お菓子がなくなった」
「買い置きがありますよ」
「違うのがいい」
「では、買いに行きましょうか」
「うん」
雅は満足そうに頷いた。
そして、主神へ視線を向ける。
「あなたも来る?」
「え?」
「暇なら」
主神は少し驚いたようだった。
まさか、自分が誘われるとは思っていなかったのだろう。
やがて彼は、楽しそうに笑った。
「そうだね。せっかくだから付き合おう」
「じゃあ、荷物持ち」
「……私は一応、主神なんだけどな」
「それが何?」
「いや、何でもない」
紫苑は静かに天井を見上げた。
世界の主神を荷物持ちにする幼女。
この光景を人類が見たら、一体どう思うだろうか。
もっとも、そんなことを気にしているのは紫苑くらいだった。
アスペーダに至っては、主神が荷物を持つことに何の疑問も抱いていない。
「では、私もご一緒しましょう」
「うん」
こうして、世界の行く末を左右しかねない存在たちの外出が決まった。
◆
その日の夕方。
世界のどこか。
光の届かない暗闇の中で、一つの巨大な目が開いた。
長い、長い眠り。
幾度もの時代が過ぎ去り、かつて存在した国々が歴史の彼方へ消えていくほどの時間。
それでも、その存在は眠り続けていた。
いや、眠らされていたというべきか。
幾重にも重ねられた封印。
神々でさえ容易には触れられない、古い理によって閉ざされた場所。
その奥で、一つの意思が目覚めていた。
「……見つけた」
低く、かすれた声が響く。
暗闇が震えた。
「見つけたぞ」
巨大な目が、ゆっくりと細められる。
そこに浮かんでいたのは、歓喜にも似た感情だった。
「我らが始祖」
「我らが災厄」
「我らが、唯一恐れる御方」
かつて神々ですら、その名を口にすることを避けた古き怪物。
その存在は、長い年月を経てなお、ただ一つの名を忘れていなかった。
一色雅。
否。
彼らにとって、その名はあまりにも小さな呼び名に過ぎない。
「ようやく、再会できる」
怪物は笑った。
その笑い声は、封印された空間の奥深くへと響いていく。
そして、世界のどこかで、古い封印の一つが音もなく軋み始めた。
◆
### 次回予告 第七話「動物園と、少しばかりの騒動」
雅の希望で、動物園へ出かけることになった一色家。
紫苑、雅、アスペーダ、そしてなぜか主神まで同行することに。
世界の管理者と古き魔人、そしてその二人を従えるように振る舞う幼女。
そんな奇妙な一行は、人間社会に溶け込むことができるのか。
しかし、動物園で飼育されている一匹の動物が、雅を見た瞬間に異常な反応を示す。
それは、遥か昔に雅と関わりを持った存在の末裔だった。
一方、探索者協会では、アスペーダの身元調査が難航していた。
そして、世界の裏側では、古き怪物たちが次々と動き始めていた。




