第五話 不滅の魔人、母のもとへ帰還する
一色家には、いくつかの決まり事がある。
一つ。玄関の扉を開ける前に、必ず来訪者を確認すること。
二つ。雅の機嫌を損ねないこと。
そして、最後の一つ。
――雅の家族に手を出してはいけない。
これは、一色家における絶対の決まり事だった。
もっとも、最後の決まり事については、破った場合に何が起きるのかを知る人間はほとんどいない。
理由は単純。
それを知ることができた人間が、あまりにも少ないからだ。
さて。
そんな一色家に、久しぶりの来客があった。
「母上、ただいま戻りました」
玄関に立っていたのは、一人の青年だった。
整った顔立ちに、腰のあたりまで伸びた長い黒髪。見た目の年齢は二十代前半ほどだろうか。
服装はシンプルな黒いコートで、片手には旅行帰りらしい大きな鞄を持っている。
その姿だけを見れば、どこにでもいる青年にしか見えない。
ただし、彼の正体は人間ではなかった。
不老の肉体を持つ魔人。
数え切れないほどの年月を生き、数多の魔物や神秘を屠ってきた、古き怪物の一柱。
かつて人類が神話の中にしか存在しないと考えていた、異形の存在。
その名は、アスペーダ。
そして彼は、一色雅の義理の息子だった。
「おかえり」
リビングから顔を出した雅は、特に驚くこともなく答えた。
まるで、少し遠くへ出かけていた家族が帰ってきた程度の反応である。
「お久しぶりです、母上」
「うん。お土産は?」
「もちろんです」
アスペーダは微笑み、持っていた鞄を開いた。
中から取り出したのは、いくつかの箱だった。
「こちらは北方の国で見つけた菓子です。少々甘みが強いですが、母上のお口には合うかと」
「ふうん」
「こちらは東方の島国で作られた茶葉です。香りが独特で、なかなか興味深いものでした」
「お茶?」
「ええ。お気に召すと思います」
雅は箱を受け取り、興味深そうに眺めた。
その様子を見て、アスペーダは満足そうに頷く。
「そして、こちらは少し珍しいものになります」
「何?」
「竜の卵です」
「いらない」
即答だった。
「そうですか」
アスペーダは何のためらいもなく卵を鞄に戻した。
竜の卵。
それは、人間の世界であれば国家規模の騒ぎになってもおかしくない代物だ。
しかし、雅にとっては興味のないものだったらしい。
「こちらはどうでしょう」
続いてアスペーダが取り出したのは、小さな装飾品だった。
古びた銀色の細工が施された、手のひらに収まるほどの大きさの品だ。
「古代遺跡で発見したものです。母上がお好きそうな意匠でしたので」
「見せて」
雅はそれを受け取った。
小さな銀細工を指先でくるりと回し、光にかざす。
「綺麗」
「お気に召したようで何よりです」
「ありがとう」
「いえ。母上に喜んでいただけたのなら、持ち帰った甲斐がありました」
アスペーダは穏やかに微笑んだ。
その光景を見ていた紫苑も、少しだけ頬を緩める。
この親子のやり取りを見るのは久しぶりだった。
「アスペーダさん、お久しぶりです」
「紫苑殿。お元気そうで何よりです」
「そちらもお変わりないようで」
「ええ。おかげさまで」
二人は軽く挨拶を交わした。
しかし、紫苑の内心にはわずかな警戒があった。
アスペーダが帰ってきた。
それ自体は喜ばしいことだ。
彼は雅の家族であり、紫苑にとっても長い付き合いのある相手である。
ただし、彼は雅に似ている。
人間とは大きく異なる倫理観を持ち、物事を人間の尺度で考えない。
そして何より――強すぎる。
普段は穏やかで礼儀正しいが、それは彼が人間に対して寛容だからではない。
単に、人間に興味がないだけなのだ。
「ところで、アスペーダさん」
「はい」
「今回はどのくらい滞在される予定ですか?」
「しばらくはこちらにいるつもりです」
「そうですか」
紫苑は笑顔を保った。
内心では、ほんの少しだけ頭を抱えていた。
しばらく。
つまり、当分の間は雅とアスペーダの二人を見守る必要があるということだ。
もっとも、紫苑に拒否するつもりはなかった。
二人とも、大切な家族なのだから。
◆
その日の夕食。
食卓には三人分の料理が並んでいた。
雅はハンバーグを食べている。
アスペーダは紅茶を飲み、紫苑は二人の様子を見ながら食事を進めていた。
「母上」
「何?」
「私が留守にしていた間、何か変わったことはありましたか?」
「特にない」
「そうですか」
「少しダンジョンを片付けたくらい」
その言葉に、アスペーダの手が止まった。
「……片付けた?」
「うん」
「どちらをですか?」
「近所のやつ」
「なるほど」
アスペーダは納得したように頷いた。
紫苑は思わず額に手を当てる。
「雅様、あれは片付けたという表現で済ませていいものでは……」
「そう?」
「第七階層の魔物が全滅したんですよ?」
「全部いたから、全部消しただけ」
「そういう問題ではありません」
「そう?」
雅は不思議そうに首を傾げた。
本人にとっては、散らかっていたものを片付けた程度の認識なのだろう。
紫苑は小さく息を吐いた。
一方、アスペーダは二人の会話を聞きながら、再び紅茶を口に運んでいた。
「母上らしいですね」
「そう?」
「ええ」
「ふうん」
それ以上、雅は興味を示さなかった。
しかし、アスペーダはふと思い出したように口を開く。
「そういえば、母上」
「何?」
「この近辺に、妙な気配が漂っています」
紫苑が顔を上げた。
「妙な気配?」
「ええ」
アスペーダはカップを置き、窓の外へ視線を向ける。
「人間ではありません。かといって、一般的な魔物とも違う。どちらかといえば、古い神秘に近いものです」
「そう」
雅はハンバーグを切り分けた。
「心当たりはありますか?」
「ない」
「そうですか」
アスペーダは特に気にした様子もなく、再び紅茶を飲んだ。
しかし、紫苑は違った。
古い神秘。
その言葉に、心当たりがあった。
最近、国内のダンジョンで発生している不可解な現象。
魔物の消失。
空間の歪み。
正体不明の魔力反応。
そして、それらのいくつかは雅に関連している可能性があると、探索者協会も調査を進めている。
そこへ、新たに別の何かが現れたというのか。
「……調べた方がいいでしょうか」
「必要ありません」
紫苑の言葉に、アスペーダが即答した。
「母上が気にされていないのであれば、放っておけばよろしいかと」
「ですが……」
「紫苑殿」
アスペーダは穏やかに微笑んだ。
「母上の周囲で起きることは、基本的に母上の意思一つで解決します」
「それは分かっています」
「ならば、心配する必要はありません」
紫苑は黙り込んだ。
確かに、その通りだった。
雅にとって、ほとんどの問題は問題にすらならない。
敵が現れようと、異常な現象が起きようと、本人が気にしなければ、それだけで終わってしまう。
しかし、だからこそ厄介なのだ。
雅が気にしないことを、周囲の人間は気にしてしまう。
そして、雅が気にするような事態になれば、それはもう人間の手に負える問題ではない。
「紫苑」
「はい?」
「ハンバーグ、おかわり」
「はい。すぐに用意しますね」
紫苑は立ち上がり、キッチンへ向かった。
アスペーダはその背中を見送ると、雅へ視線を戻す。
「母上。明日は何かご予定が?」
「買い物」
「そうですか。では、私もご一緒してよろしいでしょうか」
「いいよ」
「ありがとうございます」
平和な夕食だった。
少なくとも、この屋敷の中では。
◆
翌日。
探索者協会本部。
「一色家に新たな人物が出入りしている?」
会議室に、困惑した声が響いた。
「はい。身元は不明ですが、一色紫苑と親しい様子でした」
「男性か?」
「ええ。二十代前半ほどに見える青年です」
「名前は?」
「現在調査中です」
調査員は手元の資料を差し出した。
そこには、屋敷の監視カメラに映ったアスペーダの姿が記録されていた。
「妙ですね」
「何がだ?」
「この青年、国内のどのデータベースにも登録されていません」
「外国人ではないのか?」
「そちらも調べました。しかし、該当する人物が見つかりません」
「……不法入国者か?」
「現時点では何とも」
調査員は一度言葉を切った。
そして、次の資料を提示する。
「ただ、彼が屋敷に入った直後、周囲の魔力濃度が異常な数値を記録しています」
「またか……」
理事長は深く息を吐いた。
ここ最近、一色家の周辺では不可解な現象が続いている。
最初は第七階層の魔物消失事件。
次に商業施設でのA級探索者の無力化。
そして、正体不明の少女――一色雅。
そこへ今度は、身元不明の青年まで加わった。
「一色家は一体何なんだ……」
思わず漏れた呟きに、室内の誰も答えられなかった。
「接触しますか?」
「いや、まだだ」
理事長は首を横に振った。
「一色紫苑だけでも十分に慎重な対応が必要だ。そのうえ、正体不明の青年までいる。下手に刺激するべきではない」
「では、監視を継続するということで?」
「ああ。ただし、絶対に先走るな。相手の正体も実力も分からない以上、こちらから余計な手を出すべきではない」
理事長は資料を閉じた。
彼らはまだ知らない。
その青年が、どれほど古く、どれほど危険な存在なのかを。
そして、一色家における彼の立場を。
◆
同時刻。
一色家の屋敷。
アスペーダは庭にいた。
手には紅茶の入ったカップ。
穏やかな風が吹く中、彼は空を見上げていた。
「……なるほど」
ふと、庭の隅へ視線を向ける。
そこには、一匹の小さな虫がいた。
いや、正確には虫に見えるだけの何かだった。
小さな羽を持ち、黒い身体を震わせている。
一見すれば、どこにでもいる虫にしか見えない。
しかし、それは生物ではなかった。
人間には認識することすら難しい、極めて微弱な存在。
何らかの意思によって生み出された、監視のための端末。
「随分と懐かしい気配ですね」
アスペーダはカップを置き、虫を見下ろした。
「まさか、この時代にまだ残っていたとは」
虫が震えた。
逃げようとしているのだろう。
だが、逃げられない。
アスペーダの視線が向けられている。
ただそれだけで、虫の周囲にある空間がわずかに歪んでいた。
「安心してください。私はあなたに興味がありません」
彼は指先で虫を摘まみ上げる。
「ただ、一つだけ聞かせてください」
虫が何かを伝えようとした。
その瞬間。
「アスペーダ」
背後から声がした。
振り返ると、雅が立っていた。
「何してるの?」
「少し珍しいものを見つけまして」
「虫?」
「似たようなものです」
雅は摘ままれている虫を見た。
そして、興味なさそうに言った。
「捨てて」
「承知しました」
アスペーダは虫を握り潰した。
抵抗はなかった。
音も、光も、何もない。
ただ、そこにあった小さな存在が消えた。
「ねえ」
「はい」
「今日は何をするの?」
「母上のご希望に合わせます」
「じゃあ、買い物」
「分かりました」
「紫苑も連れていく」
「承知しました」
雅は満足そうに頷いた。
それから、何事もなかったかのように屋敷へ戻っていく。
アスペーダもその後に続いた。
庭には、何も残っていなかった。
ただ一つ。
彼が握り潰した虫が、消える直前に発していた微弱な信号だけを除いて。
それは、遠く離れた場所にいる何者かへと届いていた。
――見つけた。
――あの御方が、まだ存在している。
そして、その信号を受け取った何者かは、長い沈黙の末に動き始めた。




