第四話 国内最上位の探索者と、決して届かない存在
一色紫苑は、強い。
それは探索者の間では広く知られた事実だった。
国内ランキングの上位に名を連ね、人類最強と称される者たちには一歩及ばないものの、その実力は疑いようがない。
彼女の戦闘スタイルは、極めて単純だった。
身体強化と魔力操作。
その二つを極限まで磨き上げた、純粋な近接戦闘。
複雑な魔法を組み合わせることも、相手の裏をかくような小細工を弄することもない。
ただ、己の身体と魔力を極限まで高め、真正面から敵を打ち砕く。
それが一色紫苑という探索者だった。
しかし、そんな彼女には一つだけ、奇妙な肩書きがある。
――一色雅の代行者。
その意味を正確に理解している人間は、ほとんどいない。
そして、その意味を知っている者は、例外なく口を閉ざしていた。
その日、紫苑は協会からの依頼を受け、とあるダンジョンを訪れていた。
目的は、ダンジョン内部に発生した異常個体の討伐。
通常の探索者では対処が難しく、被害が拡大する前に処理する必要があるとのことだった。
もっとも、紫苑にとってはそれほど難しい仕事ではない。
「紫苑さん」
「はい?」
隣を歩いていた協会職員が、少しばかり言いにくそうに声をかけた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ。私に答えられることでしたら」
「一色雅さんについてです」
「ああ、その件ですか」
紫苑は特に驚いた様子もなく答えた。
ここ数日、協会の人間から雅について尋ねられる機会が増えている。
先日の商業施設での一件に加え、ダンジョン第七階層で発生した魔物消失事件。
それらの異常事態に雅が関わっている可能性が高い以上、協会としては当然の反応なのだろう。
「彼女は、本当にあなたより強いのですか?」
職員の質問に、紫苑は少しだけ考え込んだ。
そして、穏やかな口調で答える。
「比較すること自体、あまり意味がないと思います」
「それは……どういう意味でしょうか?」
「私と雅様では、そもそも立っている場所が違いますので」
職員は黙り込んだ。
紫苑は足を止めることなく、ダンジョンの奥へと進んでいく。
「私がどれだけ努力しても、雅様には届きません。これは才能や技術の問題ではないんです」
「では、何の問題なのですか?」
「存在の格です」
あまりにもあっさりと告げられた言葉。
しかし、その声音には一切の迷いがなかった。
「私たち人間がどれほど鍛えようと、どれほど強くなろうと、雅様との間にある隔たりは埋まりません。そもそも、同じ尺度で測れる相手ではないんです」
「……それほど、なのですか」
「ええ」
紫苑は微笑んだ。
そこには畏怖も、諦めもない。
ただ、揺るぎない確信だけがあった。
その瞬間だった。
「グルルルル……!」
前方の通路から、低い唸り声が響いた。
直後、通路の奥から巨大な影が姿を現す。
全長十メートルを超える、黒い獣。
全身を覆う黒い外殻は鋼鉄のように硬く、口元から覗く牙は人間の身体など容易に噛み砕けるほどに鋭い。
今回の討伐対象である異常個体だった。
「っ……!」
職員が思わず後ずさる。
本来ならば、複数人の上位探索者で対処する必要がある危険な魔物だ。
しかし、紫苑は動じなかった。
「下がってください」
一歩、前に出る。
その瞬間、彼女の身体から膨大な魔力が溢れ出した。
魔力は全身を巡り、筋肉を強化し、身体能力を極限まで引き上げていく。
黒い獣が咆哮を上げ、紫苑へと突進した。
巨体に似合わぬ速度。
普通の探索者ならば、反応することすら難しい一撃だった。
だが――。
「遅いですね」
紫苑の姿が消えた。
次の瞬間。
黒い獣の首が、宙を舞った。
遅れて、巨体が地面に崩れ落ちる。
あまりにも一瞬の出来事だった。
「…………」
職員は息を呑んだまま、目の前の光景を見つめていた。
今の一撃。
それは、国内上位の探索者という肩書きに相応しい、圧倒的な実力だった。
紫苑は何事もなかったかのように手を軽く振り、付着した血を払う。
「これで依頼は完了ですね」
「……今のが、一色さんの実力ですか」
「大したことではありませんよ。今回は相手もそれほど強くありませんでしたから」
「これで……大したことではないと?」
「ええ」
紫苑は小さく首を傾げた。
そして、何かを思い出したように職員へ視線を向ける。
「さて、討伐対象の確認も済みましたし、戻りましょうか」
「……はい」
職員はそれ以上、何も尋ねなかった。
これほどの実力を持つ探索者が、自分より遥かに上の存在を代行者として支えている。
しかも、本人はそのことを少しも不思議に思っていない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
一色雅。
一体、彼女は何者なのだろうか。
そして、そんな存在の傍にいる紫苑とは、どのような関係なのだろうか。
職員は改めて、雅という存在の異質さを思い知らされていた。
◆
その夜。
一色家の屋敷は、いつも通り静かだった。
リビングのソファには雅が座っている。
テーブルの上には紅茶と、紫苑が用意したお菓子。
雅はそれらを交互に口へ運びながら、テレビを眺めていた。
そこへ、紫苑が戻ってくる。
「ただいま戻りました、雅様」
「おかえり」
「今日はお変わりありませんでしたか?」
「特に」
「そうですか。それならよかったです」
紫苑はそう言って、雅の向かいに腰を下ろした。
そのときだった。
「紫苑」
「はい?」
「怪我してる」
「え?」
雅が紫苑の手を指差していた。
視線を向けると、手の甲に小さな傷が一つ。
ダンジョンでの討伐中についたものだ。
大した傷ではない。
本人もすっかり忘れていた程度のものだった。
「本当ですね。いつの間にかついてしまったみたいです」
「大丈夫なの?」
「ええ。大した傷ではありませんよ。これくらいなら自然に治ります」
「そう」
雅は興味を失ったように視線をテレビへ戻した。
紫苑はそんな雅の様子を見て、少しだけ微笑む。
数秒ほど、静かな時間が流れた。
「治さないの?」
不意に、雅が尋ねた。
「え?」
「その傷」
「これくらいなら問題ありませんから」
「ふうん」
雅は紅茶を一口飲む。
そして、特に気にする様子もなくソファに座り直した。
紫苑にとっては、本当に些細な傷だ。
しかし、雅がわざわざ気にかけてくれたことは、少しだけ嬉しかった。
もっとも、本人にその自覚があるかどうかは分からないが。
「紫苑」
「はい?」
「明日は何をするの?」
「そうですね……特に予定はありませんが」
「じゃあ、遊びに行く」
「お出かけですか?」
「うん」
雅は少し考えるように視線を上げた。
それから、淡々と告げる。
「動物園」
「動物園ですか?」
「大きい虫が見たい」
「……動物園の動物は虫ではありませんよ?」
「似たようなもの」
「そうですか……」
紫苑は苦笑した。
雅にとって、人間も動物も、ダンジョンに棲む魔物も、大した違いはないのだろう。
もっとも、本人からすれば、わざわざ区別する必要すらないのかもしれない。
「分かりました。明日は動物園に行きましょう。予定を調整しておきますね」
「お願い」
雅は満足そうに頷いた。
紫苑はその横顔を眺めながら、静かに息を吐く。
明日は平和だといい。
余計な騒ぎも、面倒な事件もなく。
ただ雅様と動物園を回り、帰りに何か甘いものでも買って帰る。
そんな穏やかな一日になればいい。
紫苑は心からそう願った。
――もっとも、その願いが叶うかどうかは、また別の話なのだが。




