第三話 探索者協会、正体不明の少女を調査する
一色雅。
その名前が、探索者協会の上層部で初めて議題に上がったのは、商業施設で発生した探索者暴走事件から三日後のことだった。
日本探索者協会本部。
国内の探索者を統括するこの施設には、一般職員が立ち入ることのできない特別な会議室が存在する。
その日、そこには十数人の人間が集められていた。
いずれも探索者協会の幹部や、国内のダンジョン管理に関わる重要人物ばかりである。
会議室の大型モニターには、一人の少女の写真が表示されていた。
黒い髪に、赤い瞳。
幼い顔立ちの、どこにでもいそうな少女。
ただし、その写真を見つめる人間たちの表情は、決して穏やかなものではなかった。
「……一色雅、ですか」
最初に口を開いたのは、会議の進行を務める男性だった。
彼の手元には、一枚の調査資料がある。
しかし、そこに記載されている情報は極めて少なかった。
名前。一色雅。
性別。女性。
外見年齢。およそ五歳から七歳。
保護者。一色紫苑。
それだけである。
「一色紫苑については問題ありません。国内でも名の知れた探索者です。過去の実績、戦闘能力、協会への貢献度、いずれも申し分ありません」
担当者が説明を続ける。
「現在の実力も、間違いなく国内の最上位層に分類されます」
「人類最強には届かないが、十分に危険な実力者だな」
「ええ。ですが、今回問題となっているのは彼女ではありません」
担当者がモニターを操作する。
画面が切り替わり、再び幼い少女の写真が表示された。
「こちらの一色雅です」
「商業施設で暴走した探索者を制圧した少女か」
「はい」
「紫苑がやったのではないのか?」
「当初はその可能性も考慮しました。しかし、現場にいた複数の目撃者の証言では、一色紫苑は一切動いていなかったとのことです」
「では、誰が?」
「一色雅です」
会議室に沈黙が落ちた。
「……冗談だろう?」
幹部の一人が眉をひそめる。
「私もそう思いたいところですが、現場の映像と証言は一致しています」
担当者は淡々と説明を続けた。
「暴走した探索者はA級相当の魔力を保有していました。通常であれば、複数の高ランク探索者による制圧が必要になる相手です」
「それを、幼い少女が?」
「はい。しかも、能力を使用したと思われる時間は極めて短いものでした」
「どのようなスキルだった?」
「不明です。魔法、固有スキル、魔力による干渉。そのいずれにも分類できるだけの情報がありません」
「……厄介だな」
別の幹部が腕を組んだ。
「それだけではありません」
担当者は次の資料を表示した。
そこに映し出されたのは、例のダンジョン第七階層の調査映像だった。
「先日のダンジョン第七階層における魔物消失事件についても、一色雅が関与している可能性が浮上しています」
「根拠は?」
「現場で観測された異常な魔力反応と、商業施設で記録された反応に共通点がありました」
「つまり、同一人物によるものだと?」
「断定はできません。ただし、可能性は高いと考えています」
会議室の空気が、さらに重くなる。
「……待て。第七階層の魔物を全滅させたという話だったな?」
「正確には、全個体が消失しています。死骸も、血痕も確認されていません」
「それを同じ少女がやった可能性がある、と」
「はい」
誰かが深く息を吐いた。
一つの階層に生息する魔物を、痕跡すら残さず消し去る。
それがどれほど異常なことなのか、この場にいる人間たちは理解していた。
「……子供だぞ」
誰かが呟く。
「見た目は、でしょう」
担当者は即座に返した。
「ダンジョンが出現して以降、外見と実年齢が一致しない存在は珍しくありません。魔物との混血、魔力による肉体変質、特殊なスキルによる若返り。可能性はいくらでもあります」
「つまり、実際には何歳なのか分からないということか」
「はい。そもそも、人間であるかどうかすら確認できていません」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「人間ではない可能性もあるのか?」
「現段階では否定できません」
再び沈黙。
やがて、会議室の一番奥に座っていた男が口を開いた。
「それで、どうするつもりだ?」
日本探索者協会理事長。
国内の探索者管理を統括する人物であり、彼自身もかつては名の知れた探索者だった。
現在でも、その実力は国内屈指と評されている。
「接触します」
担当者が答える。
「危険ではないか?」
「だからこそです。相手が何者であれ、こちらに敵対する意思がないことを示す必要があります」
「力を持つ存在を放置するわけにもいかん、ということか」
「はい。ただし、敵対する理由もありません」
理事長はしばらく資料を眺めていたが、やがてそれを閉じた。
「分かった。接触を許可する」
そして、集まった幹部たちを見渡す。
「ただし、決して刺激するな。相手が何者であれ、こちらから敵対する理由はない。能力について問い詰めるような真似も避けろ」
「承知しました」
「まずは一色紫苑を通じて、穏便に面会を申し込め。相手が拒否するのであれば、それ以上は踏み込むな」
こうして、一色雅への接触が決定した。
もっとも。
この会議室にいた人間の誰一人として知らなかった。
当の本人が、探索者協会などという組織の存在を、つい昨日までまともに認識していなかったことを。
◆
一色家。
「雅様」
「何?」
「お客様です」
午後の穏やかな時間。
ソファに寝転がり、クッションを抱えていた雅は、紫苑の声に顔を向けた。
「帰して」
「……まだ誰かも説明していませんが」
「面倒そうだから」
「探索者協会の方々です」
「知らない」
即答だった。
紫苑は小さく苦笑する。
「そうおっしゃらずに」
「紫苑が対応すればいいでしょう」
「今回は雅様への面会を希望されています」
「断って」
「……承知しました」
紫苑は一度頭を下げ、部屋を出ようとした。
その背中に、雅の声がかかる。
「紫苑」
「はい?」
「お菓子」
「お客様がお帰りになったら用意しますね」
「今」
「…………」
紫苑は一瞬だけ目を閉じた。
「……かしこまりました。すぐにご用意します」
「うん」
雅は満足そうに頷き、再びクッションに顔を埋めた。
紫苑は小さく息を吐いてから、部屋を後にした。
◆
一色家、応接室。
そこには、探索者協会から派遣された三人の職員が座っていた。
いずれも協会内で一定の地位を持つ人間であり、今回の訪問も正式な手続きを踏んだものだった。
しかし、彼らの表情には緊張が見える。
何しろ、今回の訪問目的は、協会が正体を把握できていない存在への接触なのだ。
やがて、扉が開いた。
「お待たせいたしました」
現れたのは、一色紫苑だった。
黒髪を後ろでまとめ、いつも通り隙のないスーツ姿。
その表情には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「一色紫苑さんですね。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「いえ。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
紫苑は軽く頭を下げると、向かいのソファに腰掛けた。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「実は、保護されている一色雅さんについて、少しお話を伺いたく参りました」
「雅様について、ですか」
「はい」
職員の一人が手元の資料を確認する。
「率直に申し上げます。先日の商業施設での事件について、協会としても確認しておきたいことがございます」
「と、おっしゃいますと?」
「現場にいた探索者を制圧したのは、一色雅さんなのでしょうか?」
紫苑は微笑んだ。
「そうですね。雅様が少しお力を使われたようです」
「やはり……」
職員たちは顔を見合わせた。
まさか、ここまであっさり認められるとは思っていなかったのだろう。
「では、彼女はどのような能力を?」
「申し訳ありませんが、それについてはお答えできません」
「……そうですか」
「雅様の能力について、私から説明することはできませんので」
「それでは、彼女の正体についてはどうでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間。
紫苑の笑みが、ほんのわずかに変わった。
「正体、ですか?」
「ええ。失礼を承知で申し上げますが、彼女の経歴には不明な点が多すぎます。年齢も、能力も、出自も分からない。協会としては、彼女が何者なのか把握しておく必要があります」
「なるほど」
紫苑は静かに頷いた。
そして、穏やかな声音で答える。
「私の大切な家族です」
「……それは分かっています。しかし、我々が知りたいのはそういうことではなく――」
「申し訳ありませんが」
紫苑の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「雅様について、必要以上に詮索することはおすすめしません」
職員たちは一瞬、言葉を失った。
紫苑の表情は変わらない。
相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
しかし、その雰囲気だけが明らかに違っていた。
「脅しですか?」
職員の一人が慎重に尋ねる。
「いいえ。忠告です」
「忠告……」
「私は一色紫苑です。国内探索者の一人であり、雅様の代行者でもあります」
「代行者?」
「ええ。ですから、雅様に関する用件は、まず私を通してください」
紫苑は一人一人の顔を見渡した。
「雅様は、人間社会の事情にあまり関心をお持ちではありません。探索者協会のことも、ほとんどご存じないでしょう」
「それは……」
「そんな方に、突然大勢で押しかけて質問を重ねる。あまり賢明な判断とは思えません」
「しかし、協会としては彼女の力を把握しておく必要が――」
「その必要性については理解しています」
紫苑は言葉を遮らず、静かに続けた。
「ですが、必要だからといって、何をしても許されるわけではありません」
その声音には、明確な拒絶が含まれていた。
「雅様に危害を加えるつもりはありません」
「でしたら、なおさらです」
紫苑は微笑む。
「どうか、今後もそのお気持ちを忘れないでください」
職員たちは、それ以上踏み込めなかった。
彼女の言葉が単なる脅しではないことを、本能的に理解していたからだ。
一色紫苑は、国内でも屈指の実力者である。
そんな彼女が、これほどまでに一人の少女を守ろうとしている。
それだけでも、協会が慎重になる理由としては十分だった。
「……分かりました。本日はこれで失礼いたします」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
紫苑は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
三人の職員が応接室を出ていく。
その背中を見送った後、紫苑はようやく小さく息を吐いた。
「まったく……」
彼女は一度だけ、雅のいる部屋の方へ視線を向ける。
「本当に、手のかかるお方です」
その声には、呆れと、それ以上の親愛が混じっていた。
◆
その頃。
雅は自室で寝転がっていた。
手元には菓子の袋。
テレビでは探索者の特集番組が放送されている。
『本日は、国内最強クラスの探索者として知られる――』
画面には、一人の男性探索者が映し出されていた。
数々の高難度ダンジョンを攻略し、国内でもトップクラスの実績を持つ人物らしい。
司会者が彼の功績を称え、本人も自信に満ちた表情で語っている。
雅はしばらく画面を眺めていた。
そして。
「弱そう」
ぽつりと呟いた。
画面に映っている男は、人類の中では相当強い部類に入る。
実際、彼の戦闘能力は並の探索者とは比較にならない。
しかし、雅からすれば、少し頑丈な虫程度の存在だった。
「雅様」
そのとき、紫苑が部屋に戻ってきた。
「お客様は?」
「お帰りいただきました」
「そう」
雅はテレビに視線を戻す。
紫苑はその様子を眺めてから、隣に腰を下ろした。
「ところで、雅様」
「何?」
「探索者協会について、何か思うところはありませんか?」
「ない」
即答だった。
「そうですか」
「どうして?」
「いえ。協会の方々が、雅様に興味を持たれているようでしたので」
「知らない」
雅は菓子を一つ口に放り込む。
「興味があるなら、勝手にすればいいでしょう」
「そうですね」
「紫苑」
「はい」
「お菓子がなくなった」
紫苑はテーブルの上に置かれた空の袋を見た。
先ほどまで、そこそこの量が入っていたはずなのだが。
「……買いに行きましょうか」
「うん」
「今からですか?」
「うん」
「かしこまりました」
紫苑は微笑んだ。
今日も一色家は平和だった。
少なくとも、雅が退屈を持て余している間は。
◆
一方、その頃。
探索者協会本部。
先ほど一色家を訪問した三人の職員は、理事長室に集められていた。
「それで、一色紫苑は何と?」
理事長の問いに、代表の職員が答える。
「一色雅についての詳しい説明は得られませんでした。ただ、彼女を守ろうとする意志は明確でした」
「敵対的だったのか?」
「いいえ。終始穏やかな態度でした。しかし……」
「しかし?」
「一色雅に関する詮索は控えるよう、強く忠告されました」
理事長は目を細めた。
「紫苑ほどの実力者が、そこまで警戒する相手か」
「はい。それに、彼女は一色雅を単なる保護対象として扱っているわけではないように感じました」
「というと?」
「……あくまで私の印象ですが、彼女にとって一色雅は、何よりも優先すべき存在なのだと思います」
理事長はしばらく黙っていた。
やがて、机の上に置かれた資料へと目を向ける。
一色雅。
情報はほとんどない。
しかし、その存在が関与したと考えられる事件は、すでに二件。
どちらも通常の探索者の常識では説明できないものだった。
「引き続き、慎重に調査を進めろ」
「承知しました」
「ただし、紫苑の忠告は忘れるな。彼女が守ろうとしているものを、我々が不用意に刺激する必要はない」
「分かりました」
職員たちが退室する。
一人になった理事長は、窓の外へ視線を向けた。
「一色雅、か……」
その名前を、もう一度口の中で転がす。
ただの少女ではない。
それは間違いない。
だが、いったい何者なのか。
理事長はまだ、その答えを知らなかった。
そして、探索者協会の人間たちもまた、まだ知らない。
一色紫苑という女性が、何を背負っているのか。
いや。
彼女が守っている存在が、どれほど人間の理解を超えたものなのかを。
その答えに近づこうとしたとき。
この国の主神が、久方ぶりに動くことになる。
それは、もう少し先の話である。




