9話 私の側を離れるな
「……どういうことだ」
シェルドの声が低く落ちる。
だが、セイルは真っ青な顔で首を振った。
『僕にも、何がなんだか分からないんです……!』
『でも……母上が危険なのかもしれません』
姿見の向こうで、セイルの瞳に涙が滲む。
『父上……。
母上を……守ってください!』
姿見の光が、激しく揺らぐ。
「待て、セイル――」
次の瞬間、鏡面がぱたりと暗くなった。
静寂。
シェルドは、ゆっくり拳を握り締めた。
***
翌朝。
馬車の扉が閉まる。
向かいへ腰掛けたシェルドは、
無言でセフィラを見つめていた。
セフィラが、少し不思議そうに瞬く。
今のところ、変わった様子はない。
黒髪も、白い肌も。
いつものセフィラのままだ。
シェルドは、ひとつ息を吐いた。
(……まだ、大丈夫か)
だが、視線は離さない。
何が起こるのか分からない。
警戒するに越したことはなかった。
ふいに、セフィラが目を伏せる。
長い睫毛へ、朝日が淡く落ちた。
また心臓が、どくりと跳ねた。
……?
最近感じる、この胸の鼓動はなんだ?
意味が分からない。
ただセフィラを見ていると、なぜか落ち着かない。
視線を逸らせば済む。
それなのに、どうしても目が追ってしまう。
シェルドは眉を寄せた。
しばらくして。
馬車が静かに学園前へ止まる。
「おはようございます。セフィー様」
アレスが、こちらへ歩み寄ってくる。
だが、今日はどこか疲れた顔をしていた。
「……アレス様?」
セフィラが不思議そうに首を傾げる。
アレスは小さく息を吐いた。
「実は……今日から数日間、学園へ来られないんです」
「え?」
「聖女の仕事へ戻らなければならなくて」
シェルドの紫の瞳が、わずかに細められる。
「……何かあったのか」
「少し、サボり過ぎました」
アレスが、どこか遠い目で呟いた。
「でも、神殿へ戻る前に貴方に一目会いたくて」
アレスの両手がセフィラの手を包み込む。
「いつ見ても、セフィー様は可愛いですね」
ふっと微笑んだ。
セフィラの頬が赤く染まる。
「……お前……」
すると。
「アリス様ーーー!!」
校門の向こうから、
慌てた神官が駆け込んでくる。
「お急ぎください!
結界が! 結界がーー!!」
「…………」
「…………」
沈黙。
アレスが、思わず顔を覆った。
「……行ってきます」
どこか疲れた様子のまま歩き去っていく。
その背中を、セフィラが心配そうに見つめた。
「だ、大丈夫なんでしょうか……」
「……問題ないだろう。あいつは聖女だ」
シェルドが口を開く。
セフィラが、少しだけ眉を下げる。
シェルドは、そっと視線を逸らした。
――数日間、
アレスは学園へ来ない。
脳裏に、昨夜のセイルの声が過る。
『母上を……守ってください!』
「……セフィ」
「はい?」
「今日から、私の側を離れるな」
「え?」
セフィラが、ぱちりと目を瞬かせる。
「え、えっと……授業中もですか?」
「当然だ」
「む、無理です……!」
シェルドは、小さく眉を寄せた。
席も、隣にするよう教師へ話しておくべきか。
本気で考え始めている自分がいた。
「…………?」
セフィラが困ったように首を傾げた。
気づけば、シェルドはそっとセフィラの手を取っていた。
「……とりあえず、行くぞ。
何が起こるか分からん」
「……ここは、戦場か何かでしたっけ?」
セフィラは、困惑したまま呟いた。
二人はそのまま歩き出す。
今はまだ、
学園では、何も起こっていなかった。




