7話 明日からも来る
ぞわりと嫌な感覚が、アレスの背筋を駆け抜ける。
視線の先。
セフィラの足元へ、黒い靄が滲んでいた。
「……っ」
一瞬、脳裏に前世の記憶が閃く。
あの靄。
淀んだ感情。
崩れていく世界。
「こいつは……!」
アレスが、それへ足を振り下ろす。
ぷつり。
靄が、足元で弾けた。
「……っ!?」
シェルドが、目を見開く。
「アレス様?」
馬車の中から、セフィラが不思議そうに首を傾げた。
「何でもありません」
アレスは、すぐに笑みを作った。
「お気をつけて、セフィー様」
「……はい?」
どこか戸惑いながらも、セフィラは小さく頷く。
やがて、馬車が静かに走り去っていった。
夕闇の中、残されたシェルドが、低く問う。
「……なんだ、それは」
「闇の精霊です」
アレスが、踏み潰した黒い靄を見下ろす。
「負の感情へ寄生し、やがて宿主を侵食します。
朝の散水魔道具も、昼の植木鉢も――」
「恐らく、こいつの影響でしょう」
シェルドの眉がぴくりと動く。
「それに……あの婚約破棄の時、セフィー様への疑いが不自然なほど広がったのも、こいつが周囲をうろついていた影響かもしれません」
「そして最終的には、セフィー様を取り込み――
世界を滅ぼします」
「……は?」
シェルドは思わず声を漏らす。
「そんな存在、伝承でしか聞いたことがないぞ」
「ええ。今では、ほとんど昔話です」
アレスは、どこか冷めた目で笑った。
「まだ、完全には入り込めていません。
……ですが、狙われ続けています」
視線が馬車の去った方向へ向く。
「……セフィー様は、
本来あり得ないほど闇との相性が高い」
「……何?」
シェルドの眉間に、皺が寄る。
「今の時代、闇魔法は失われています。
ですが、闇の精霊にとっては違う」
「セフィー様は、最高の器です。
だからこそ、放っておけない」
シェルドの紫の瞳が、鋭く細められた。
「……なぜ、お前がそんなことを知っている?
聖女は予言まで出来るのか?」
アレスが、誤魔化すように顔を逸らした。
「……まぁ、そんなもんです」
すると、踏み潰したはずの黒い靄が、床を這うように広がった。
「……まだ動くんですか」
アレスが、小さく目を細めた。
「お、おい……」
シェルドが言いかけた瞬間。
ぐしゃ。
アレスが無造作に踏み潰す。
黒い靄が、足元で潰れた。
さらに踵でぐり、と押し潰す。
沈黙が落ちる。
黒い靄が、じゅわりと消えていく。
シェルドが、ゆっくり瞬きをした。
「……お前、今……」
「元は聖女の身体ですから。
足にも少しくらい、
聖魔法の名残があるかもしれません」
アレスが平然と言いながら、床を軽く擦った。
「……多分、これで大丈夫でしょう」
だがその瞳は、どこか警戒を解いていなかった。
翌朝。
侯爵家の屋敷が、朝から妙に騒がしかった。
ばたばたと、廊下を走る音が聞こえる。
こんこん、と慌ただしく扉が叩かれた。
「お嬢様!」
「……どうしました?」
セフィラが返事をすると、扉が開く。
入ってきた侍女は、困惑したような顔をしていた。
「王太子殿下が、お迎えに来ておられます……!」
「……はい?」
セフィラが、ぱちりと目を瞬かせた。
階段を降りると、
玄関前の広間で両親が揃って立っていた。
どこか落ち着かない様子で、
何度も外へ視線を向けている。
父親がセフィラに気づき、真剣な顔で口を開いた。
「セフィラ。お前、何をした?」
「えっ?」
セフィラが目を丸くする。
「なぜ殿下が、急に迎えになど……」
「わ、私にも……
何が何だか……」
言いかけて、はっとした。
――そういえば。
昨日、アレスと一緒にいた時、
シェルドは確かに言っていた。
『明日からは、私が送る』
まさか、本当に来るなんて。
「と、とりあえず……行ってまいります」
「……あ、ああ」
父親が、まだ戸惑ったまま頷く。
「待ちなさい」
母親の表情が引き締まった。
「……私も行くわ」
「お母様?」
「この前、婚約破棄の件もあったでしょう?
急に殿下が来られるなんて、普通ではありません」
母親の声が、少しだけ硬くなる。
セフィラの方へ顔を向けた。
「貴女、本当に何もしていないのね?」
「し、してません……!」
母親がキッと父親を見上げた。
「貴方もいらっしゃいますわよね?」
「え?」
「何かあったらどうするんですか」
「あ、ああ……そうだな」
セフィラと同じ吊り目の父親が、
戸惑ったように頷く。
そのまま、三人は屋敷の外へ向かった。
屋敷の前には、黒塗りの馬車が静かに止まっていた。
その傍らで、シェルドが待っている。
朝日を受けた銀髪が、淡く光を弾いていた。
「殿下」
父親が、慌てて一礼する。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。
この度は、どのようなご用件で……?」
シェルドは静かに視線を向けた。
「セフィを、迎えに来ただけだ」
一瞬。
空気が止まった。
紫の瞳が、真っ直ぐセフィラを捉える。
「婚約者なのだから、問題ないだろう」
「…………」
「…………」
両親の視線が、思わずセフィラへ向く。
今、確かに。
王太子は、セフィラを“セフィ”と呼んだ。
シェルドは、淡々とした調子で続けた。
「明日からも来る」
「…………は?」
再び、空気が止まった。
父親は何度か瞬きを繰り返した。
「セフィ。手を」
「は、はい……!」
シェルドの差し出した手へ、
セフィラがそっと自分の手を重ねる。
「お、お父様。お母様。
行ってまいります」
「え、ええ……」
「気をつけるんだぞ」
やがて、馬車がゆっくりと動き出す。
呆然と見送る父親の横で、母親がぽつりと呟いた。
「……セフィラ、いつの間に殿下とあんなに仲良くなったのかしら……」
その声は、朝の光へ静かに溶けていった。




