6話 黒い靄
翌週の朝。
学園の門前で、
侯爵家の馬車が止まった。
扉が開く。
セフィラが馬車を降りると、
そこには既に、金髪の青年――アレスの姿があった。
「おはようございます、セフィー様」
「アレス様……?
今日も早いんですね」
二人は並んで歩き出す。
学園の中庭には、柔らかな陽射しが降り注いでいた。
だが、周囲の空気は、どこか落ち着かなかった。
視線が刺さる。
誰も直接は何も言わない。
それなのに、居心地だけが悪かった。
すれ違う令嬢たちが、視線を逸らす。
背後で、ひそひそと囁く声が聞こえた。
「……なんだか、
今日は少し変な感じですね」
セフィラが、少し困ったように呟く。
「気にしなくていいですよ」
アレスは淡々と言った。
「くだらない噂です」
「…………」
セフィラは視線を落とす。
その時だった。
シャアアッ!!
花壇へ水を撒く魔道具が、
勢いよく暴走した。
「きゃっ……!」
大量の水が、真っ直ぐセフィラへ噴き出す。
「危ない!」
ぐい、とアレスがセフィラを庇うように抱き寄せた。
勢いのまま、セフィラの身体がアレスの胸へぶつかる。
次の瞬間、
大量の水が、そのままアレスへ降り注いだ。
「……っ」
金髪から、雫がぽたりと滴る。
「ア、アレス様……!」
セフィラが慌てて顔を上げる。
「ご、ごめんなさい……
私のせいで……」
アレスは、濡れた前髪をかき上げた。
「問題ありません。
……あなたは、濡れていませんね?」
その言葉に、
セフィラの頬が、かぁっと赤く染まった。
「……随分近いな」
低い声が落ちる。
セフィラを抱き寄せたまま、
アレスが振り返る。
少し離れた場所に、
シェルドが立っていた。
紫の瞳が、じっとアレスを見つめている。
「シェルド様……?」
セフィラが目を瞬く。
シェルドは、濡れたアレスを一瞥すると口を開いた。
「……明日からは、私が送る」
「……え?」
セフィラが、目を丸くする。
「遅いです」
アレスが、じろりとシェルドを見た。
「お前に言われる筋合いはない」
「ありますよ。
今朝まで、放置していた人には」
一瞬、空気がぴりりと張る。
「え、えっと……」
セフィラだけが、
おろおろと二人を見上げていた。
昼休みが終わり、
午後の移動授業へ向かうため、
生徒たちは別棟へ移動していた。
セフィラとシェルドは、
校舎脇の石畳を並んで歩いている。
言葉はない。
けれど、最近シェルドの距離が妙に近い。
それが、少しだけ落ち着かなかった。
後方では、別クラスのアレスも同じ方向へ歩いていた。
春風が、静かに校舎の間を抜けていく。
その時だった。
「あっ……!」
上階から、焦った声が落ちる。
反射的に顔を上げた瞬間、
植木鉢が、真っ直ぐセフィラへ落ちてきていた。
「セフィ!」
強く腕を引かれる。
「……っ!」
セフィラの身体が、
シェルドの胸へぶつかった。
直後。
ガシャン!!
足元で、植木鉢が砕け散る。
「も、申し訳ありませんっ!
手が滑ってしまって……!」
上階の窓から、青ざめた令嬢が顔を出していた。
「怪我はないか」
気遣うように、紫の瞳がセフィラを覗き込む。
セフィラは、まだ彼の胸へ寄りかかったまま、
ぱちぱちと瞬きをした。
「は、はい……」
顔が熱い。
近い。
銀色の髪が、すぐ目の前にある。
「…………」
シェルドもまた、わずかに固まっていた。
「……ふぅん」
ふいに後ろで、ぽつりと声が落ちた。
少し離れた場所で、アレスがこちらを見ていた。
だが、ピンク色の瞳は、すぐに砕けた植木鉢へ向けられる。
(……おかしい)
朝の散水魔道具。
そして、今度は植木鉢。
(不運が、集中しすぎてる)
偶然では片付けられない。
何かが、セフィー様を狙っている。
アレスの目が、静かに細められた。
放課後。
学園の空気は、朝より明らかに悪くなっていた。
視線が痛い。
廊下の端では、令嬢たちがこちらを見て何かを囁いている。
まるで、セフィラを避けるようだった。
「…………」
セフィラが、思わず目を伏せる。
その隣で、アレスとシェルドの空気が、張り詰めていた。
「馬車まで送ります」
先に口を開いたのは、アレスだった。
「え……
でも、そこまでしていただかなくても……」
「何を言ってるんですか」
アレスが、そっとセフィラの手を包み込む。
ピンク色の瞳が、真っ直ぐセフィラを見つめた。
「こんな空気のまま、
セフィー様を一人になんてできません」
口元が、わずかに綻ぶ。
「……私が、そうしたいんです」
セフィラの頬が、かぁっと赤く染まった。
「…………」
隣で、シェルドの眉間の皺が深くなる。
「……私の婚約者だ。
送るのは私でいい。お前は不要だ」
アレスが、じろりとシェルドを見る。
「……まだ、貴方を信用していません」
「何?」
「さあ、行きましょう。セフィー様」
そのまま、アレスが歩き出そうとした瞬間。
「……!」
ぐい、と反対側の腕が引かれる。
「手を離せ。私の役目だ」
「嫌です。私のセフィー様ですから」
アレスが即答する。
セフィラは真っ赤なまま、固まった。
シェルドはわずかに目を細める。
そのまま、セフィラの手を取った。
「……行くぞ」
「え? ……え?」
気づけば、セフィラは両側から手を取られていた。
三人は、並んで馬車乗り場へ向かうことになった。
しばらくして。
そこへ着く頃には、すっかり日が傾いていた。
「では、お気をつけて」
アレスが手を離す。
「……また明日」
シェルドも、低く告げた。
「は、はい……」
セフィラは、真っ赤なまま頷いた。
馬車へ乗り込もうとした、その刹那。
アレスの背筋に、嫌な感覚が走った。
「……っ」
夕闇の奥。
何かが、揺れた。




