第3話 その日から読む本。
銀行の駐車場を出て、しばらく走った。
助手席に置いた鞄の中には、銀行でもらった小冊子が入っている。
『その日から読む本』
ずいぶん意味ありげな題名だ。
すぐ読んだほうがいいんだろうな。
そのまま家に帰ろうかと思ったが、今の頭で読んでも、内容が入ってこない気がした。
十二億円の当せんが銀行で確認され、手続きも終わった。
ようやくひと息ついたはずなのに、気持ちはまだ落ち着いていない。
「とりあえず、本当に落ち着こう。」
少し先に、何度か入ったことのある喫茶店があった。
私はそこで休んでから帰ることにした。
駐車場に車を入れ、小冊子の入った鞄を助手席に残して、店に入った。
店内は空いていた。
窓際の席に座り、コーヒーを注文した。
静かな店内に、低く音楽が流れている。
コーヒーが運ばれてくると、私はひと口飲んだ。
「ふー、少し落ち着いた。」
珍しく、独り言を言った。
今日、朝起きてからのことが頭に流れていた。
「やっぱり、今日一日中、緊張していたんだな。」
なぜか、緩んだ笑みがこぼれた。
「本当に当たっていた。」
と、小さな声でつぶやいた。
それからしばらく、何も考えずに窓の外を眺めていた。
コーヒーを飲み終えて、すぐに家に帰った。
もう寄り道はしない。
帰り着くと、まず仏壇に手を合わせた。
「どうやら、本当に当たったみたいだ」
妻に報告した。
妻の遺影の目が、驚きで少し動いた気がした。
室内着に着替えてからお茶を入れ、テーブルの上に小冊子を置いた。
表紙には、
『突然の幸運に戸惑わないために』
と書かれている。
さっきから、何回か見てるけど。表紙だけ。
戸惑わないために、か。まさに俺のための本だな。
当選を期待して買ったのに、いざ当選すると、そりゃー戸惑うよね。
十二億円だぜ、十二億円。
「フフフ……」
これが「愉悦の、なんとか」という、心の奥から出る笑いなんだろうか?
「さて、と。」
冊子を開いた。
最初に、今心配していることを書き出すように書いてあった。
心配していること。
私はまっさらな新品ノートを鞄から取り出して、考えてみた。
この大金をどう管理するか。
誰に話すか。
子供たちに、いつ話すか。
その三つを書いたところで、手が止まった。
心配していることはもっとあるはずなのに、何を心配すればいいのかさえ、まだよく分かっていなかった。
第一部には、すぐにやっておきたいことと、やってはいけないことが書かれていた。
当せん金を安全に保管すること。
当せん金支払証明書の発行を依頼すること。
これからの大まかな予定を考えること。
気持ちが落ち着くまでは、大きな決断をしないこと。
当せん金は銀行に預けた。
支払証明書も依頼した。
少なくとも、最初にやるべきことはできているらしい。
少し安心した。
読み進めると、当せん直後は興奮状態にあり、普段ならしないような行動に出ることがあると書いてあった。
興奮した勢いで、当せんしたことを人に話したり、急に気前よくお金を使ったりしてはいけないらしい。
誰かにお金を分ける約束をしたり、仕事を辞めたりすることも、落ち着いてから考えたほうがいいという。
私の場合、辞めるほどの仕事でもないが、一応、整体院がある。
「明日から休みます」と張り紙を出すのは簡単だ。
だが、それをしたら、近所の人から理由を聞かれるだろう。
急に高い車を買ったり、生活を変えたりすれば、もっと分かりやすい。
何も変えない。
しばらくは、これまでどおりにする。
それが一番よさそうだった。
第二部には、誰に当せんしたことを知らせるか、誰にお金を分けるか、何に使うかを、落ち着いて考えるように書かれていた。
誰かひとりに話せば、そこから噂が広がる可能性もあるらしい。
子供たちには話すつもりだった。
だが、いつ話すか。
どこまで話すか。
十二億円という金額まで、最初から伝えるのか。
考え始めると、急に難しくなった。
第三部は、残ったお金をどうするかという話だった。
将来のために残すお金。
貯蓄と投資。
リスクとリターン。
遺言書の作成。
必要に応じて、専門家に相談すること。
十二億円なら、ほとんどが「残ったお金」になる。
銀行に置いたままでいいはずはない。
かといって、自分ひとりで簡単に決められる金額でもない。
いや、決めていいけど、家族の協力は必要だし、彼らに使わずして、誰に使うの? と思える。
一通り読み終えたときには、お茶はすっかり冷めていた。
読めば道筋が分かる本だと思っていた。
道筋は少しは思いついたが、まだまだ、考えなければならないことが多い。
私はノートの新しいページを開いた。
そして、一番上に大きく書いた。
――しばらく、何も急いで決めないこと。
――しばらくは、いろんな思い付きを、小さくまとめることなく書き連ねていき、あとで調べて、まとめていく。
「文章からして、まとまってないや。」
自分で突っ込んで、笑いながらペンを置いた。
今日は、これで十分だろう。
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