『再接続』
取調室の蛍光灯は、やけに白かった。
時間の感覚が狂う。
何時なのか、何日目なのか、分からなくなる。
「もう一度聞くが――その“男”の声に、心当たりはないか?」
向かいの刑事が言う。
同じ質問を、何度目か分からないほど繰り返している。
「ないって言ってるだろ」
徹は、ため息混じりに答えた。
「機械みたいな声だった。特徴なんてない」
「通話履歴は残っていない。発信元も不明。……そんな都合のいい話があるか?」
「じゃあ俺がやったって言いたいのか?」
空気が、一瞬だけ張り詰める。
刑事は、視線を逸らさない。
「状況だけ見ればな」
「……は」
笑いそうになるのを、抑える。
「だったら証拠出せよ」
机の上に置かれた写真。
血に濡れたアスファルト。
倒れている、美咲の姿。
目を逸らさない。
逸らす理由が、もうない。
「……被害者とは、どういう関係だ?」
「知り合いだ」
「それだけか?」
「それ以上でも以下でもない」
嘘じゃない。
少なくとも今は。
刑事は、しばらく黙っていたが、やがてペンを置いた。
「今日はここまでだ」
椅子の音が、やけに大きく響く。
「だが、まだ終わりじゃない。連絡は取れるようにしておけ」
「分かってる」
徹は立ち上がる。
扉が開く。
外の空気が、妙に軽い。
現実に戻ったはずなのに――どこか、遠い。
それから、一ヶ月半が過ぎた。
事件は、未解決のまま。
ワイドショーでは何度も取り上げられたが、やがて新しい話題に押し流された。
“通り魔的狙撃事件”。
それが、世間の認識だった。
徹は、会社に復帰した。
だが、何もかもが変わっていた。
視線。
距離。
空気。
誰も何も言わないが、分かる。
――知っている。
少なくとも、“何かあった男”だと。
妻とは、ほとんど会話がない。
同じ家にいるだけの、他人。
食事も別。
視線も合わせない。
あの日の通話以来、一度も“名前”を呼ばれていない。
それでも、離婚の話は出ない。
出さないのか、出せないのか。
どちらでもいい。
どうでもいい。
ただ、時間だけが過ぎていく。
その日。
徹は、渋谷にいた。
スクランブル交差点の雑踏。
新宿とは違う、人の流れ。
ざわめき。
光。
音。
すべてが、似ているのに、どこか違う。
スマホを見る。
時刻は、18時27分。
待ち合わせは、18時30分。
相手の名前は――奈々。
もう一人の、不倫相手。
なぜ会う気になったのか、自分でもよく分からない。
ただ。
“確認したかった”。
何かを。
自分でも、はっきりとは分からない何かを。
人混みの中で、視線を巡らせる。
そして。
すぐに見つかった。
奈々だった。
ベージュのコート。
肩までの髪。
だが――様子がおかしい。
動かない。
スマホを耳に当てたまま、固まっている。
「……?」
一歩、近づく。
奈々の顔が見える。
青ざめている。
目が、どこも見ていない。
さらに一歩。
その瞬間。
徹の背中を、冷たいものが走った。
――知っている。
この感じ。
この“空気”。
あの日と、同じだ。
「……奈々?」
声をかける。
奈々の目が、ゆっくりとこちらに向く。
だが、焦点が合っていない。
震える唇。
「……とおる、さん……」
かすれた声。
その直後。
奈々のスマホから――
『動くな』
あの声が、流れた。
時間が、止まる。
間違いない。
同じ声。
同じ温度。
同じ、平坦さ。
『そのまま、一歩も動かずに聞け』
奈々の肩が、びくりと震える。
「……やめて……」
小さな声。
だが、通じない。
『いいな』
男は続ける。
『今から、お前は質問に答える』
徹の心臓が、ゆっくりと強く打つ。
逃げる、という選択肢は――浮かばなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ。
胸が、熱くなる。
『嘘をついたら、撃つ』
奈々の呼吸が、乱れる。
「いや……いや……」
『まず一つ目だ』
一拍。
『そいつとの関係を、正確に言え』
奈々の目が、徹を見る。
助けを求める目。
だが。
徹は、動かない。
何も言わない。
ただ、見ている。
あの日の、自分と同じ顔。
同じ位置。
同じ、絶望。
――そして。
同じ“選択”。
「……っ」
奈々の喉が、動く。
「……付き合って、ます……」
絞り出すような声。
『いつからだ』
「……半年前……」
『他にもいるか?』
奈々が、固まる。
答えられない。
だが。
徹には分かる。
あの沈黙の意味が。
あの時、自分がそうだったように。
「……いる……かも……」
泣きそうな声。
その瞬間。
男が、笑った。
『いい』
満足そうに。
『いいな。素直だ』
背筋が、ぞくりとする。
徹は、確信する。
――また始まる。
『次だ』
男の声が、わずかに弾む。
『そこにいる男に、代われ』
奈々の手が、震える。
スマホが、ゆっくりと差し出される。
「……徹さん……」
涙で濡れた顔。
拒絶も、怒りもない。
ただ、恐怖だけ。
徹は、それを見て――
ほんの少しだけ、口元を歪めた。
恐怖じゃない。
共感でもない。
もっと、別の感情。
言葉にできない何か。
スマホを、受け取る。
耳に当てる。
「……久しぶりだな」
自然に、言葉が出た。
沈黙。
そして。
『ああ』
男が、答える。
『久しぶりだ、桐生』
心臓が、強く鳴る。
『待ってたぞ』
一拍。
『次のゲームだ』
渋谷の雑踏の中で。
再び。
世界が、切り離された。




