第73話 今度は、私が
条項の取り下げから、十日が過ぎた。
南区の桟橋は、直っていた。
新しい杭は皮を剥いたばかりの色で、古い杭の焦げた色と、水の上で縞になって並んでいる。板は継ぎ目が鳴らない。職人が、鳴らない継ぎ方に組み直したからだ。荷車が一台、試すように渡り、袂で見ていた連中から、短い歓声が上がった。
費えは、通常の手続きで下りた。宛先の欄を通った書面は、十日で戻ってきた。三月かかった春が、嘘のようだった。
戻ってきた書面には、通った机の名が全部並んでいた。どの机も、三日と留めていない。留めれば留めたことが残る、と全員が知っている紙は、それだけで速く歩く。
女は、それでも南区にいた。
朝は通りを一度だけ歩き、昼は宿の裏庭で少女の書き取りを見て、夕方は桟橋の袂で水路を眺める。何もしない一日の過ごし方が、いつのまにか決まっていた。
発つ理由が、まだ見つからないような、探していないような、そういう滞在だった。
「――お客だよ」
昼下がり、少女が宿の裏庭に駆け込んできた。
「すっごい偉そうな……ううん、偉い人。灰色の目の」
「……」
女は、干していた旅装の手を止めた。
――――――
直ったばかりの桟橋の袂に、その男は立っていた。
旅装ではない。かといって、宰相の礼装でもない。どちらでもない格好で、水路を眺めている。
「……珍しいこともあるものです」
女は、隣に並んだ。
「王宮が、回らなくなりますよ」
「回ります」
グレンは、水路を見たまま答えた。
「丸一日、宰相が抜けても回ることは、実験済みです。……ご存じでしょう」
「……ええ」
「二度目の実験です。今日は」
「……」
沈黙が、流れた。
気詰まりではない沈黙だった。この二人の間には、昔から、そういう沈黙しかない。
「桟橋を、見に来られたのですか」
「報告書は読みました。刻限まで、全部」
一拍。
「読んでから、水位の跡というものを一度この目で見たくなりまして」
「……それだけ、ですか」
「それだけなら」
グレンは、そこで初めて、女のほうを向いた。
「宰相の使いで足ります」
「……」
「戻る場所が、あると聞きました」
静かな声だった。
あの朝、王宮を発つ女が、エルナに残した言葉。誰から伝わったのかは、訊くだけ野暮というものだ。
「……言いました」
女は、視線を水路に逃がさなかった。逃がさない、と決めている顔だった。
「ですが、ここは戻る場所ではありませんよ。ここは」
一拍。
「まだ、困っている場所です」
「では、丁度いい」
グレンは、袂の茶屋を目で示した。
「困っている場所の茶が、どんな味か。……検分に、お付き合い願えますか」
――――――
茶は、二つ来た。
桟橋の袂の茶屋は、床几が三つあるだけの店だ。屋根は日除けの布で、竈は一つ。荷待ちの人足と、船を降りた親方たちが、立ち代わりに座っては発っていく。茶は濃くて、渋くて、安い。この通りの茶は、それでいいことになっている。
欠けた茶碗と、欠けていない茶碗で。店の婆が、欠けていないほうを女の前に置いた。この通りでの、女の扱いが知れた。
「……あなたが座っているのを、初めて見ます」
女が言った。
「王宮では、いつも立っておいででした」
「立っているのが、仕事でしたから」
グレンは、茶を一口、飲んだ。
飲んで、湯呑みを少し眺めた。検分は、ほんとうにするらしい。それから、何でもないことのように言った。
「あなたの椅子は、空けてあります」
「……椅子」
「東棟の、あの椅子です。誰も座らせておりません」
「……埃が、たまります」
「払わせています」
即答だった。
「席次の都合、という理由も、まだ生きております。……もっとも」
一拍。
「最近は、誰も理由を訊きません」
「……」
女は、茶碗に目を落とした。
湯気の向こうで、口元がわずかに動いたように見えた。笑ったのかどうかは、湯気のせいで、分からなかった。
「……あなたは、昔から」
「はい」
「引き際に、妙なことを言う人です」
「引き際ではありませんよ」
グレンは、茶碗を置いた。
「あなたはいつも、来て、整えて、去る。……こちらは、いつも見送る側でした。あの朝も、その前も」
「……」
「一度くらい、逆があってもよいでしょう」
女が、顔を上げた。
「今度は、私が来ました」
それだけだった。
それ以上は、何も言わなかった。約束も、問いも、答えの要る言葉は、何一つ。
「……」
女は、茶を一口、飲んだ。
ずいぶん、ゆっくり飲んだ。
「……渋いですね。この茶」
「ええ」
一拍。
「良い渋さです」
――――――
通りの角で、少女はそっと覗いていた。
「……ねえ、あれって」
「詮索しない」
カイルが、少女の頭を軽く押さえた。
「ああいうのはな、嬢ちゃん」
一拍。
「帳面に、載せないのだ」
彼は初めて、王宮の外へ、自分の用で出ました。用件は「茶の検分」だそうです。
約束の言葉はひとつも交わされていません。載せない帳面が、ひとつ増えただけです。




