↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/74

第73話 今度は、私が

 条項の取り下げから、十日が過ぎた。


 南区の桟橋は、直っていた。


 新しい杭は皮を剥いたばかりの色で、古い杭の焦げた色と、水の上で縞になって並んでいる。板は継ぎ目が鳴らない。職人が、鳴らない継ぎ方に組み直したからだ。荷車が一台、試すように渡り、袂で見ていた連中から、短い歓声が上がった。


 費えは、通常の手続きで下りた。宛先の欄を通った書面は、十日で戻ってきた。三月かかった春が、嘘のようだった。


 戻ってきた書面には、通った机の名が全部並んでいた。どの机も、三日と留めていない。留めれば留めたことが残る、と全員が知っている紙は、それだけで速く歩く。


 女は、それでも南区にいた。


 朝は通りを一度だけ歩き、昼は宿の裏庭で少女の書き取りを見て、夕方は桟橋の袂で水路を眺める。何もしない一日の過ごし方が、いつのまにか決まっていた。


 発つ理由が、まだ見つからないような、探していないような、そういう滞在だった。


「――お客だよ」


 昼下がり、少女が宿の裏庭に駆け込んできた。


「すっごい偉そうな……ううん、偉い人。灰色の目の」


「……」


 女は、干していた旅装の手を止めた。


 ――――――


 直ったばかりの桟橋の袂に、その男は立っていた。


 旅装ではない。かといって、宰相の礼装でもない。どちらでもない格好で、水路を眺めている。


「……珍しいこともあるものです」


 女は、隣に並んだ。


「王宮が、回らなくなりますよ」


「回ります」


 グレンは、水路を見たまま答えた。


「丸一日、宰相が抜けても回ることは、実験済みです。……ご存じでしょう」


「……ええ」


「二度目の実験です。今日は」


「……」


 沈黙が、流れた。


 気詰まりではない沈黙だった。この二人の間には、昔から、そういう沈黙しかない。


「桟橋を、見に来られたのですか」


「報告書は読みました。刻限まで、全部」


 一拍。


「読んでから、水位の跡というものを一度この目で見たくなりまして」


「……それだけ、ですか」


「それだけなら」


 グレンは、そこで初めて、女のほうを向いた。


「宰相の使いで足ります」


「……」


「戻る場所が、あると聞きました」


 静かな声だった。


 あの朝、王宮を発つ女が、エルナに残した言葉。誰から伝わったのかは、訊くだけ野暮というものだ。


「……言いました」


 女は、視線を水路に逃がさなかった。逃がさない、と決めている顔だった。


「ですが、ここは戻る場所ではありませんよ。ここは」


 一拍。


「まだ、困っている場所です」


「では、丁度いい」


 グレンは、袂の茶屋を目で示した。


「困っている場所の茶が、どんな味か。……検分に、お付き合い願えますか」


 ――――――


 茶は、二つ来た。


 桟橋の袂の茶屋は、床几が三つあるだけの店だ。屋根は日除けの布で、竈は一つ。荷待ちの人足と、船を降りた親方たちが、立ち代わりに座っては発っていく。茶は濃くて、渋くて、安い。この通りの茶は、それでいいことになっている。


 欠けた茶碗と、欠けていない茶碗で。店の婆が、欠けていないほうを女の前に置いた。この通りでの、女の扱いが知れた。


「……あなたが座っているのを、初めて見ます」


 女が言った。


「王宮では、いつも立っておいででした」


「立っているのが、仕事でしたから」


 グレンは、茶を一口、飲んだ。


 飲んで、湯呑みを少し眺めた。検分は、ほんとうにするらしい。それから、何でもないことのように言った。


「あなたの椅子は、空けてあります」


「……椅子」


「東棟の、あの椅子です。誰も座らせておりません」


「……埃が、たまります」


「払わせています」


 即答だった。


「席次の都合、という理由も、まだ生きております。……もっとも」


 一拍。


「最近は、誰も理由を訊きません」


「……」


 女は、茶碗に目を落とした。


 湯気の向こうで、口元がわずかに動いたように見えた。笑ったのかどうかは、湯気のせいで、分からなかった。


「……あなたは、昔から」


「はい」


「引き際に、妙なことを言う人です」


「引き際ではありませんよ」


 グレンは、茶碗を置いた。


「あなたはいつも、来て、整えて、去る。……こちらは、いつも見送る側でした。あの朝も、その前も」


「……」


「一度くらい、逆があってもよいでしょう」


 女が、顔を上げた。


「今度は、私が来ました」


 それだけだった。


 それ以上は、何も言わなかった。約束も、問いも、答えの要る言葉は、何一つ。


「……」


 女は、茶を一口、飲んだ。


 ずいぶん、ゆっくり飲んだ。


「……渋いですね。この茶」


「ええ」


 一拍。


「良い渋さです」


 ――――――


 通りの角で、少女はそっと覗いていた。


「……ねえ、あれって」


「詮索しない」


 カイルが、少女の頭を軽く押さえた。


「ああいうのはな、嬢ちゃん」


 一拍。


「帳面に、載せないのだ」

彼は初めて、王宮の外へ、自分の用で出ました。用件は「茶の検分」だそうです。

約束の言葉はひとつも交わされていません。載せない帳面が、ひとつ増えただけです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。