第72話 静かに、引く
その夜、オルデン卿は一人で書斎にいた。
書斎は、飾り気のない部屋だ。壁の三方が帳面の棚で、家のものと領のものと、王宮から持ち帰った写しとが年の順に並んでいる。灯りは手元に一つ。若い頃から、数字は一つの灯りで読むと決めている。影が二つになると、桁を見間違えるからだ。
机の上に、三つの束。
春と秋の、二つの増水の記録。エルナ・リースの書いた宛先の様式の写し。そして、記録庫の閲覧録から回ってきた、番号の振られた一覧。
卿は、全部を読んでいた。
二度ずつ、読んでいた。
「……旦那さま」
家令が、灯りを足しに入ってくる。
足された灯りを、卿は黙って手で退けさせた。家令は驚かない。四十年、この書斎の灯りは一つと決まっている。退けさせた灯りを持ったまま、家令は控えの位置に立った。
「まだ、お休みになりませんので」
「ん……ああ」
卿は、顔も上げなかった。
「なあ。わしは、間違うておったかの」
「……ご冗談を。議場でのお言葉、どれも正しゅうございました」
「正しかったよ。全部な」
卿は、乾いた声で笑った。
「非常時に会議は間に合わん。正しい。責任の所在は明らかであるべきだ。正しい。現場はいつか間違う。これも正しい。……正しいことしか、言うておらん」
一拍。
「正しいことだけ言うて、負ける戦があるのだ。長生きすると、たまに見る」
「……」
「これを見よ」
卿は、宛先の様式を、指で叩いた。
「わしは『責任を負う者の名が要る』と言い続けた。……ここには、名がある。判断した者の名。検証する者の名。費えを決める者の名。期日と、留めた日数まで残る」
「……はい」
「わしの言う『名』は、上に一人であった。ここの『名』は、紙のあるだけ並んどる。……どちらが多く名を負うておるかと言えば」
卿は、そこで言葉を切った。
切って、長いこと黙った。
「……足りぬのは、名ではなかったのだな。宛先だった」
その呟きには、家令は答えなかった。
答えを求めた呟きでは、なかったからだ。
「それにな」
卿は、番号の振られた一覧を手に取った。
「これよ。これがいちばん、効いた」
「……それは」
「わしの机が書面を二月半眠らせた跡を、読む順序まで付けて、棚に残していきよった者がおる。……告発ではない。公表でもない。ただ、決まりどおりに、閲覧の記録として綴じてある」
卿は、ふ、と息だけで笑った。
「分かるか。これは『いつでも読める』ということだ。誰でも、いつでもな。……脅しなら、腹も立てようが」
一拍。
「これは、脅しですらない。ただの、棚だ」
「……」
「検証条項を畳んだのは、わしだ。あの二月半に光が当たるのが、面倒での。……だがな、畳んでも畳まんでも、棚は残っておった。最初から、勝負になっておらんかったのよ」
卿は、筆を執った。
書き出す前に硯を整え、紙を二枚、寸法を確かめて切った。取り下げの文には、議会の定めた様式がある。様式どおりに書くのが、この男の礼儀だった。攻めるときも、引くときも、紙の作法は崩さない。
迷いのない手で、二通を書いた。
一通は、議会へ。上程の取り下げ。
もう一通は、財務の内へ。春の決裁遅延について、通常の検証手続きを自ら申請する旨。宛先の欄には、自分の名を書いた。
四十年、決裁の紙の隅に書き続けた署名だった。同じ大きさ、同じ速さの字が、初めて、検証される側の欄に載る。書き終えて、卿はしばらく、その欄を見ていた。
「……旦那さま。それでは、お家の傷が」
「傷は、眠らせると膿む」
卿は、封をした。
「棚に置けば、乾く。……あの様式の、いちばん癪なところはな」
一拍。
「使うてみると、楽なのだ」
――――――
翌日の議場で、取り下げは静かに読み上げられた。
取り下げの文書も、様式どおりに扱われた。受付で日付が入り、写しが刷られ、席の右肩に配られる。上程と同じ道を、同じ形の紙で戻っていく。戻る紙を粗末に扱わないのも、議会の作法のうちだった。
オルデン卿は立って、短く述べた。
「私の憂いは、責任の所在でございました。……所在は、示されました。私の申すことは、もうございません」
それだけだった。
弁明もなく、恨み言もなく、深い一礼が一つ。
誰も、卿を責めなかった。責める者がいたら、あの一礼が許さなかっただろう。
「……」
壇の側で、アルトレインはその背を見送った。
断罪は、なかった。
歓声も、なかった。
昨年の春、この議場が欲しがった類のものは、何一つなかった。
ただ、間違いかけた仕組みが一つ、記録を読んで、自分で引き返した。
――それだけのことが。
あの頃には、どうしても、できなかった。
敵は倒されません。読んで、認めて、自分の名を宛先に書いて、引きます。
「使うてみると、楽なのだ」――この仕組みへの、敵側からの最大の賛辞のつもりです。




