第74話 用がなくても
出立の朝は、よく晴れていた。
旅装の一行が、商業通りを抜けていく。
通りは、いつもどおりに流れていた。荷は先に、水汲みは二列。直った桟橋では朝いちばんの船が荷を揚げ、市場の口では帳面付けが数を数えている。数の合った帳面が、次の荷車を呼ぶ。通りの朝は、そうやって昨日の続きから始まる。誰も、一行のために手を止めない。
手を止めない代わりに、すれ違う者が順に声だけ置いていった。婆は茶殻を捨てながら「またおいで」と言い、組頭は荷の陰から「世話んなった」とだけ寄越した。振り向く者は、一人もいない。
それが、この通りの見送り方だった。
「……なあ」
カイルが、歩きながら言った。
「結局あなたは、今回、何もしませんでしたね」
「……そうですか」
「桟橋の費えを動かしたのは、下から上がった紙だ。条項を折ったのは、記録と、議場の令嬢と、読み筋を残した男。……あなたが手を出したのは」
一拍。
「筆を一本、貸しただけだ」
「……」
「一番の働き者が、一番、暇そうにしていた」
女は、少しだけ考えた。
「暇では、ありませんでしたよ」
「ほう」
「手を出さないのは」
一拍。
「手を出すより、忙しいものです」
カイルは、声を立てて笑った。
――――――
同じ朝、王宮。
グレンの机に、二通の書状が届いていた。
どちらも、他国の印璽が押されている。届いた書状は受付で日付が入り、写しが取られて原本と別の棚に納まる。国の外から来た紙も南区の裏庭で書かれた紙も、この王宮では同じ道を通る。
その同じ道を通って、今朝、宰相の机に載った。
一通は、東の隣国から。いわく、貴国の行政の制度について、仔細を学びたく、視察の使節を送りたい。
もう一通は、南の同盟邦から。いわく、同様の仕組みを我が国に築くにあたり、指南できる者を招きたい。
どちらの文面も、丁重だった。丁重さの奥に、少し急いだ匂いがあった。よその国にも、崩れかけた場所はあるのだろう。
「……殿下」
グレンは、書状を執務室に運んだ。
「仕組みが、海を渡りたがっております」
「……人を出すのか」
「出せます。今なら」
グレンは、静かに言った。
「教えられる者が、育っておりますので。エルナ・リース。ミレイユ・クラウス。……それに、あの様式なら、紙が教えます」
「……あの女に、報せるか」
「さて」
グレンは、わずかに首を傾げた。
「報せれば、こう返ってくるかと。――私の要る話では、ありませんね、と」
アルトレインは、短く笑った。
たぶん、そのとおりだった。
書状は写しが刷られ、議会と各棟へ回される。誰が行くかは、行く者たちが決める。決め方も、もう紙に書いてある。
――――――
通りの外れ、南門の手前で、少女は待っていた。
息を切らして、走ってきたのが分かる顔で。
「……もう行くの」
「ええ」
「桟橋、直ったのに」
「直ったから、です」
女は屈んで、少女と目の高さを合わせた。
「ここはもう、困っている場所ではありませんから」
「……」
少女は、うつむいた。
それから、顔を上げた。訊くと決めてきた顔だった。
「また、来る?」
同じ問いを、前にもした。
あのときの答えは、また、来ます、だった。そして女は、来た。約束は、果たされた。だからこの先は、もう約束がない。
それが、少女は、ずっと怖かった。
「……ええ」
女は、頷いた。
「また、来ます」
「……ほんとに? でも、もう、困ってないよ。ここ」
「そうですね」
女は、少しだけ間を置いた。
言葉を探すというより、言葉を確かめる間だった。
「……用がなくても」
一拍。
「来ます」
「……っ」
少女の目が、見開かれた。
用がなくても。
それは、この女の言葉の中で、たぶん、いちばん仕組みから遠い言葉だった。
「……うんっ」
少女は、何度も頷いた。
それから、壊れものを扱うように胸の前で小さく拳を握った。
「じゃあ、あたし、記録係やってるから。……次に来るとき、全部見せてあげる。ちゃんと書いといてあげる」
「……ええ」
女は、立ち上がった。
「楽しみに、しています」
――――――
南門を出て、街道が分かれる。
「さて」
カイルが、伸びをした。
「次は、どこだ」
「……」
女は、少しの間だけ街道の先を見ていた。
東の道の向こうには海があり、その先には仕組みを学びたいという国があるらしい。そういう噂は旅の耳にも入ってくる。
西の道の向こうには、まだ名も知らない街がある。
「……困っている場所です」
女は、歩き出した。
止まる前に、動く。
崩れる前に、片付ける。
そして、これからは、もう一つ。
――用がなくても、来る。
朝の光の中を、女は歩いていく。
その歩幅は、昨日までと、少しも変わらなかった。
変わらないまま、少しだけ、軽かった。
第3部、これにて一区切りです。
彼女は今部、ほとんど何もしませんでした。仕組みは、彼女がいなくても、壊されそうになっても、自分で自分を守りました。「私に依存しない仕組み」は、ここまで来ました。
そして答えがひとつ変わりました。「必要なら」から、「用がなくても」へ。仕組みの言葉から、関係の言葉へ。
海の向こうから、仕組みを学びたいという便りが届いています。彼女の道は、まだ続きます。
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