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第70話 二度目の増水

 秋の長雨は、三日続いた。


 一日目に、水路の色が変わった。上流の土を運んでくる、濁った色だ。二日目に、荷船の親方たちが舫いを増やし、倉の一階の荷を検めた。春を知っている通りは、春に覚えた順で、黙って支度を済ませていく。


 三日目の夜、水路の水位が上がり始めた。


「――膝下まで、あと二寸!」


 桟橋に、灯りが並ぶ。


 春と、同じ水だった。


 春と、違う通りだった。


「荷は倉の二階! 春と同じ手順!」


 組頭の声が飛ぶ。応じる声が、迷わない。


 手順は、体に入っている。軽い荷から二階へ、重い荷は台の上へ。運ぶ列と戻る列を分けて、すれ違いで詰まらせない。春には怒鳴りながら覚えたことを、秋は、怒鳴らずにやっている。


 声が要るのは、新入りにだけだ。その新入りの隣には、春を知っている者が一人ずつ付いている。誰が決めた組み分けでもない。気づけば、そうなっていた。


「杭の打ち増し、東から! 板は後回し!」


 東から打つのは、流れが東から当たるからだ。杭が先で板が後なのは、板は流されても杭が残れば架け直せるからだ。理由ごと覚えた手順は、闇の中でも間違わない。板を諦める順番まで、春に決めてある。諦める順番のある通りは、夜でも慌てない。


「記録係、こっち!」


 その声に、少女が走った。


 防水布で包んだ紙束を抱えて、桟橋の袂の一段高い石段に陣取る。


「――いま、何刻!?」


「四つ半!」


「四つ半、東の杭、打ち増し始め……っと」


 濡れた指で、書く。いつ。どこで。誰が。何を決めたか。


 教わったばかりの四つの欄が、雨の中で埋まっていく。


 書き損じた紙は、捨てずに袂へ入れる。濡れた夜の書き損じも、あとで数に入る。それも、もう教わっていた。


 ――――――


 同じ夜、王宮。


「南区、水位上昇。詰所より第一報でございます」


 夜半の執務室に、グレンの声が通る。


 報せは、決まった道を通って来た。詰所から早馬、受付で刻限が入り、夜番の当直が写しを取り、宰相と殿下の両方へ同時に走る。春に一度通った道は、二度目には半分の時間で通る。


 アルトレインは、すでに起きていた。


「……現場は」


「動いております。春の控えのとおりに。荷上げ、杭の打ち増し、人の割り振り――判断は、すべて現場で下りております」


「王宮がすることは」


「二つ。資材の手配の裏付けと」


 一拍。


「記録の受け取りでございます」


「……それだけか」


「それだけで足りるように、できております」


 アルトレインは、短く頷いた。


「なら、それをやれ。……手を、出しすぎるな」


「御意」


 ――――――


 同じ夜、もう一つの灯り。


 オルデン卿の屋敷にも、報せは届いていた。


「南区、増水にございます」


「……条項があれば、と申すのだろう」


 卿は、夜着のまま筆を執っていた。


「起草する。非常時特例の急ぎの布告だ。桟橋の補強費、王宮の名で即時拠出。……議会へは事後で通す。この夜のうちに」


 家令が、目を見張る。


「今宵、でございますか」


「非常のときに間に合ってこその命令だ。……見せる好機でもある」


 筆が、走る。


 この男は、有能なのだ。夜半に叩き起こされて、一刻で通る文面を書ける程度には。


 ――――――


 桟橋では、水が板の下、指二本まで来ていた。


「東、打ち増し終い!」


「西へ回れ! 灯り、先に送れ!」


 女は、石段の下にいた。


 何も、していない。


 傘もささずに、流れを見ている。


 一度だけ、手が動きかけた。


 西の灯りが遅れ、人の列が一瞬、交差しかけたときだ。そこ、と言えば済む。言えば、二呼吸早く直る。


「……」


 女は、手を袖に戻した。


 二呼吸あとに、組頭の声が飛んで、列は直った。


 二呼吸ぶん、遅い。


 それでいい。


 私の二呼吸は、私が去れば消える。彼らの二呼吸は、残る。


「――水、止まった!」


 誰かが叫んだ。


 雨足が緩み、水位が板の下で止まっていた。


 歓声とも、ため息ともつかない声が、桟橋に広がる。


「記録係! いま何刻!」


「……五つ半!」


 少女の声が、少し裏返って、夜の水路に響いた。


 それから、半刻。


 布告の使者が南区に着いた。


 王宮の名で、桟橋の補強費を即時拠出する。オルデン卿の起草した、非の打ちどころのない布告だった。


 使者は、桟橋の前で立ち尽くした。


 杭は打ち増され、荷は上がり、人々は濡れた頭のまま湯を回し飲みしていた。


「……補強の、費えを」


「おう、ありがてえ」


 組頭が、笑った。


「けどよ、旦那。補強なら、終わったぜ」


「……は」


「始めた刻限と終わった刻限、聞いてくかい。ぜんぶ書いてある」


 組頭が親指で示した先、石段の上で、少女が防水布の包みを掲げてみせた。


 使者は、書き付けを見た。


 布告の日付と刻限を見た。


 どちらが早かったか、その場の誰の目にも、もう明らかだった。

同じ水で、二度目の試験です。今回は布告も出ました。立派な、正しい、間に合わなかった布告が。

彼女が我慢した「二呼吸」が、この話でいちばん高くついた仕事です。

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