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第69話 下からの検証

 南区の宿の裏庭に、小さな机が出ていた。


 宿の婆が貸してくれた、足の揃わない机だ。板切れを噛ませて水平を出し、風で紙が飛ばないよう、四隅に湯呑みを置いた。筆は二本。一本は書く用、一本は書き損じたときの替え。硯の代わりに、行商から買った墨壺が一つ。


 道具は、それで全部だった。


 王宮の教場と比べれば、何もない。何もなくても、同じ様式が書ける。紙と筆と、書く事実さえあれば足りるように、様式のほうが作ってあるからだ。


 囲んでいるのは、少女と荷揚げの組頭と、桟橋の職人が二人。


 組頭は、朝の荷揚げを終えてから来た。職人たちは、昼の休みを回してきた。誰も、仕事を休んでは来ていない。休まずに来られる刻限を選ぶところから、この集まりは始まっている。


「……というわけで、書き方を、教わることになった」


 組頭が、腕を組んで言った。


「王宮の書式ってやつを」


「難しいの?」


 少女が訊く。


「難しくは、ありません」


 女は、紙を机の真ん中に置いた。


「誰でも書ける形に、してありますから」


 してあります、という言い方を、少女は聞き逃さなかったが、黙っていた。


「上から四つ、埋めます。いつ。どこで。誰が。何を決めたか」


 女の指が、欄をなぞる。


「春の増水の日。南区の桟橋。組頭のあなたが。荷を上げ、杭を打ち増すと決めた。……これで四つです」


「俺が書いて、いいのか」


 組頭は、まだ腕を組んでいる。


「王宮の紙だろう、それは。俺たちの決めごとなんぞ書いたら、後で咎めが来るんじゃねえのか」


「逆です」


 女は、静かに言った。


「書かなければ、あなたの判断は、なかったことになります。なかったことは、守れません。……書けば、残ります。残ったものは」


 一拍。


「検証できます」


「けんしょう」


 少女が、口の中で転がした。


「調べ直すこと?」


「ええ。間違っていなかったか、後から誰でも確かめられること」


「……調べられたら、まずいことでも?」


 職人の一人が、にやりとする。


「まずいことがある人だけ」


 女は、表情を変えずに答えた。


「調べられると、困ります」


 男たちが、声を立てて笑った。


「――次に、これを書きます」


 女は、五つ目の欄を示した。


 宛先、とある。


「あなたたちの記録を、どこに見てほしいか。……今回は、修繕の費えの検討先。つまり、王宮の費えの棚です」


「見てほしい、って書いて、見てくれるのかよ」


「見る決まりに、なっています」


 女は、言い切った。


「宛先のある申し立ては、受けた日付と、返す期日が記録されます。返らなければ、返らなかったことが残ります。……三月眠らせれば、三月眠らせた、と棚が言います」


「……へえ」


 組頭の腕が、ほどけた。


「命令を待つのでもなく」


 女は、筆を組頭に渡した。


「命令を欲しがるのでもなく。……自分たちの決めたことを、自分たちで書いて、上へ検証を求める。それが、下からの検証です」


「下からの、検証」


 少女が、繰り返した。


「それ、誰でもやっていいの」


「誰でも、です。そういうふうに」


 一拍。


「作って、あります」


 ――――――


 組頭は、書いた。


 筆を握る手が、荷綱の太さに慣れすぎていた。最初の一枚は、力が入りすぎて紙が破れた。二枚目は、女が墨の量を直した。筆先を壺の縁で二度しごく。それだけで、字は急に書きやすくなった。


 手が大きくて、字は歪んだが、四つの欄は埋まった。見積もりの写しが添えられ、職人が名を書き足し、宛先の欄が埋まる。


 職人の一人は、名を書く前に、手を着物で二度拭いた。拭いてから書いた名は、それでも少し滲んだ。滲んだ名を、誰も笑わなかった。


 書き上がった紙を、四人で覗き込んだ。歪んだ字の並んだ、ただの紙だった。ただの紙が、これから王宮の棚まで旅をして、期日付きで返事を連れて戻ってくる。そう聞くと、誰も、ただの紙という顔をしなくなった。


 最後に、組頭は筆を止めた。


「……検証を求める者、って欄が、もう一つあるぞ」


「連名で構いません」


「あんたの名前は」


 女は、首を振った。


「私は、南区の者ではありませんから」


「……ふうん」


 組頭は、深くは訊かなかった。この女が何者か、通りの古株は誰も訊かない。訊かないのが礼儀だと、なんとなく全員が知っている。


「なら、嬢ちゃん。おめえも書け」


「え、わたし!?」


「増水の日、伝令やったろうが。立派な現場だ」


 少女は、筆を受け取った。


 緊張して一画目を失敗して、二枚目の紙で、ゆっくり名前を書いた。


 生まれて初めて、公の紙に書いた名前だった。


「……」


 女は、それを黙って見ていた。


 庭の隅で、カイルが呟く。


「……なるほど。上で条項を止めても、藪の外というわけですか。下から検証が届く形が先にできてしまえば」


 一拍。


「命令の出番が、なくなる」


「……」


「相変わらず、いやらしい手を打つ」


 女は、否定しなかった。


 ただ、少女の書き上げた紙を一度だけ、指で軽く整えた。


 曲がっていた角が、まっすぐになった。

彼女が今部で最初にやった「仕事」が、これです。調整ではなく、筆を渡すこと。

名前を書いた子の紙は、この後、ちゃんと王宮まで旅をします。

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