第68話 呼び戻さない
審議が割れたまま三日が過ぎた夜、オルデン卿の側から、内々の申し入れが来た。
場所は議場ではなく、王宮の小さな応接の間。
夜の王宮は、昼とは別の音で回る。灯り係が廊下の燭を数え、夜番の控えが半刻ごとに紙に書かれる。応接の間には、先に火が入り、茶ではなく白湯が支度された。内々の席の作法だ。注ぎ足しに人が入らないように、湯差しごと置いて、給仕は下がる。
白湯なのは、毒味を省くためでもある。省いた、という形を双方が受け取るための白湯だった。内々の席は、器の選び方から始まっている。
人払いの済んだ廊下を、卿は、供を一人だけ連れて歩いてきた。
約束の刻限より、わずかに早くもなく、遅くもなく。廊下の燭の数で歩を合わせてきた者の、着き方だった。
「非公式の席を、お許しいただき」
「……いい。座れ」
アルトレインは、短く言った。
グレンが、脇に控える。
「では、遠慮なく」
卿は、座った。前置きは、しなかった。
「殿下。議場は割れております。このまま押しても引いても、傷が残るだけでございましょう。……そこで、一つ、双方の顔が立つ道を」
「……言え」
「あの調整役を、お呼び戻しくださいませ」
「……」
部屋の空気が、変わった。
「条項の是非を、あの方に検証していただく。仕組みを作られたご本人の裁定であれば、議会も、民も、誰も文句は申しません。私も、従いましょう」
筋の通った、穏当な提案に聞こえた。
実際、議場でこれを出されたら、通ったかもしれない。割れた議場は、裁定者を欲しがる。作った本人以上の裁定者は、いない。誰の顔も立ち、誰の傷も残らない。
だからこそ、内々の席で先に出してきた。断られても、議場は傷まない形で。
グレンは、卿の目を見ていた。
この男は、記録を読む。ならば、あの女がどういう人間かも読んでいる。
呼べば、来ないか――いや。
呼んで、もし来れば。
「……なるほどな」
アルトレインが、低く言った。
「仕組みの是非を、作った一人の裁定で決める。……そうなった瞬間に、この仕組みは『一人のもの』に戻る。そういう筋書きか」
「……これは、心外な」
「困り事があれば、あの女を呼べばいい。次も、その次も。……呼ぶたびに、この王宮は自分で考えることをやめていく。あの春の前と、同じ場所に戻るまでな」
卿は、否定しなかった。
わずかに、口の端が動いただけだった。
「……買い被りでございますよ、殿下。私はただ、早く収めたいだけの年寄りでございます」
「そうか」
「ですが、そこまで仰るなら、率直に申しましょう」
卿は、少しだけ身を乗り出した。
「殿下。この条項は、あなたさまのための条項でもございます」
「……」
「非常時の決定権を一つに定める。その一つとは、王族でございます。あなたさまが、あの春に手放されたもの――止められぬ命令、覆らぬ言葉。それが、戻って参るのです」
声は、あくまで穏やかだった。
「あの女人に頭を下げる前の、あなたさまに。誰もが従った、あの頃に」
「……」
沈黙が、落ちた。
燭の火が、一度だけ揺れた。夜番の控えを書く筆の音すら、この部屋までは届かない。
グレンは、動かなかった。控えの位置で、ただ、待った。
この餌を前にした殿下がどうするかは、殿下が答えることだ。
「……オルデン卿」
アルトレインは、静かに口を開いた。
「あの頃の俺の命令で、何が起きたか。記録で読んだか」
「……存じております」
「歓声の中で婚約を破棄した。誰も止めなかった。止められる仕組みが、なかったからだ」
淡々と、言った。
「間違った命令ほど、迷いなく通る。……絶対というのは、そういうものだった」
「……」
「いらん」
短く、言い切った。
「戻ってくるなら、なおのこと、いらん」
卿は、しばらく黙っていた。
それから、ほう、と小さく息を吐いた。
「……お変わりになりましたな」
「どうかな」
「呼び戻しの件も、お断りと」
「ああ」
アルトレインは、頷いた。
「あの女は呼ばない。呼ばずに、この件はこの王宮が自分で答える。……それができることが」
一拍。
「あの女がいなくても回ることが、答えだ」
「……」
オルデン卿は、ゆっくりと立ち上がった。
一礼は、深かった。
「本日は、良いものを伺いました。……ですが殿下、年寄りは諦めが悪うございます。議場では、また別の顔で」
「好きにしろ」
「は。……好きに、させていただきます」
卿が去った後、部屋には二人が残った。
白湯は、二つとも、ほとんど減っていなかった。減らない白湯を置いて帰るのも、内々の席の作法のうちだ。
「……グレン」
「は」
「今ので、良かったか」
グレンは、少しだけ間を置いた。
珍しい間だった。
「……あの方が今のお言葉を聞けないのが」
一拍。
「惜しゅうございます」
「あなたのための条項です」――いちばん甘い餌は、いちばん静かな声で出てきます。
それを要らないと言えるまでの距離が、この物語の第1話からの距離です。




