第65話 権威の側
セレナ・アルカディアの午後に、客が来た。
アルカディア家の応接は、客の格で三つに分かれている。表の広間、日当たりの客間、そして奥の小間。家令が客を通したのは、日当たりの客間だった。丁重に迎えるが、内輪には入れない。この家の作法の中では、そういう部屋だ。
客は、オルデン卿の使いだという初老の家令で、手土産は上等、口上は丁寧、用件はなかなか出てこない。
セレナは、急かさなかった。茶が一巡し、庭の話が終わり、先代同士の狩りの思い出が語られるのを扇の内で聞いていた。用件の前置きが長い客ほど、用件の側に無理がある。それも、この家で教わることの一つだった。
「……つまり」
セレナは、茶器を置いた。
「わたくしに、条項の側へ立て、と」
「立て、などと。滅相もございません」
家令は、穏やかに笑った。
「ただ、卿は常々申しております。アルカディア家のご令嬢は、この王宮で最後の、権威の何たるかをご存じの方だと」
「……」
「あの春の騒ぎより、この方、王宮は変わりました。判断は分かれ、記録は増え、命令は検証される。……結構なことでございます。ですが」
一拍。
「王族の命令が、書き付け一枚で止められる国が、果たして国の形をしておりましょうか」
「……」
「卿は、それを憂えておいでです。お嬢さまも、かつては同じ憂いを、議場で堂々と仰った。……違いましたでしょうか」
違わない。
セレナは、言った覚えのある言葉を、全部覚えている。
王宮の秩序は命令系統によって維持されている。それを制限するのは統治の根幹を揺るがす行為だ。誰が決定し、責任はどこにあるのか――
あの南区の往来で、そう言った。
本気で、言った。
「……一つ、伺いますわ」
「は」
「卿は、なぜ御自ら来られませんの」
「それは……お嬢さまのご意向を、まず」
「意向も何も」
セレナは、扇を閉じた。
「わたくし、条項をまだ読んでおりませんもの」
「……写しは、議場で」
「読みました、一度。ですから、申しております。まだ読んでいない、と」
家令は、わずかに戸惑った。
セレナは、構わず続けた。
「一度読んで良い案に見える文と、三度読んでも良い案である文は、別のものですわ。わたくしの家では、そう教わりますの」
「……」
「写しを、置いていってくださいまし。付属の細目も、全部」
「は……それでは、お味方いただけると」
「わたくしは」
セレナは、静かに言った。
「権威の側ですわ。ずっと」
家令の顔が、明るくなりかける。
「――だからこそ、読ませていただきますの」
その声の温度で、家令は、明るくなりきれなかった。
――――――
夜。
セレナは、一人で写しを広げていた。
読む前に支度をした。条項の本文と、付属の細目と、議会の定めた様式の雛形。三つを机に並べ、雛形を左に置く。あるべき形を先に目に入れてから、あるものを読む。
それから、家の書庫より過去の非常の折に出された布告の写しを三つ出させた。条項が通った後の姿を測るには、通る前の言葉だけでは足りない。似た言葉が昔、何を通し、何を残したか。紙は、そこまで並べて初めて読めたことになる。
書見の灯りを二つ点け、侍女を下がらせた。
三度、読んだ。
良い文だった。丁寧で、隙がなく、憂いが正しい。
非常時に人を守るのは、迅速な決定である。そのとおりだ。責任の所在は明らかであるべきだ。そのとおりだ。
「……」
四度目は、書いていないものを探して読んだ。
誰に教わった読み方かは、考えないことにした。
「……」
末尾。
記録および検証については、別に定める。
「……」
セレナは、その一行を扇の先で二度叩いた。
命令とは何か。
彼女は、あの往来で女に問われてから幾度も考えてきた。
命令が絶対であるとは、従う側が思考を止めることではない。命令する側が、間違いを認めない、ということでもない。
権威とは、検証を恐れないから権威なのだ。
王の言葉が重いのは、王の言葉が記録され、歴史に検証されることを王が引き受けているからだ。
検証から逃げる命令は、ただの大声にすぎない。
「……オルデン卿」
セレナは、写しを畳んだ。
「あなたの憂いは、本物ですわ。きっと」
一拍。
「ですけれど、この一行は」
扇が、止まる。
「権威では、ありませんわね」
――――――
翌朝、アルカディア家から二通の文が出た。
一通は、オルデン卿へ。写しを検分の上、改めてお返事申し上げる、という丁寧な保留。
保留の文にも、家の格は出る。断りもせず、靡きもせず、読んでいる、とだけ告げる。受け取った側がいちばん扱いに困る返事を、いちばん美しい形式で出す。それが、この家のやり方だった。
もう一通は、王宮のミレイユ・クラウスへ。
文面は、短かった。
〈条項の細目、全て手元にありましてよ。……ご入り用でしたら、伺いますわ〉
セレナは転向しません。権威主義者のまま、権威の定義で条項を測り始めます。
「検証を恐れないから権威」――この線は、第28話で彼女が言い負けた夜から、彼女がひとりで引き直してきたものです。




