第64話 責任の宛先
「――では、始めます」
王宮の一室に、若い文官と侍女が十人ほど、机を並べていた。
教場は、月に六日開く。席に貴賤はなく、来た順に前から座る。今日の顔ぶれは、東棟の来客係が二人、厨房の帳面付けが一人、配属されたばかりの侍女が三人、あとは各棟の若い文官。机の上には、同じ様式の紙が、人数分。
教えるのは、エルナ・リースだった。
黒板の脇に立つと、彼女はまず、全員の筆と紙が揃っているかを目で確かめた。揃っていない者の隣に、黙って予備を置く。話は、それからだ。
急がず、飛ばさず。この教場の、最初の決まりだった。
決まりには、二つ目もある。教わった者は、次の月、誰かに教える側に回る。教えて初めて、覚えたことになる。だから席の半分は、いつも先月の生徒だった。
配属の日が浅くて、真面目すぎると言われた侍女は、今では教える側の席に立っている。
「今日やるのは、現場判断の控えの、新しい様式です。変わった場所は、一つだけ」
エルナは、板書した。
――宛先。
「今までの控えは、何をしたか、いつしたか、誰がしたかを書きました。新しい様式は、そこにもう一行足します。……この判断の検証を、どこに求めるか」
文官の一人が、手を挙げた。
「検証を、求める……? 検証は、される側では」
「はい。される側です。だから、怖いんです」
エルナは、頷いた。
「勝手に判断して、後で咎められたら、と思うと、現場は動けません。私も、動けませんでした」
少しだけ、昔の声になった。
「人が倒れていくのを見ながら、指示を待ったことがあります。指示は、来ませんでした」
「……」
「だから、逆にするんです。判断した人が、自分から検証の宛先を書く。ここを見てくれ、と自分から言う。……そうすれば、判断は独り歩きしません。責任は消えません。宛先が、変わるだけです」
責任は消えない。宛先が変わるだけ。
文官たちは、その言い回しを書き取った。
それから半刻、教場は書き方の稽古になった。昨日の自分の仕事から、判断を一つ選んで、四つの欄に書いてみる。いつ。どこで。誰が。何を決めたか。厨房の帳面付けは仕入れの振り替えを書き、来客係は席次の差し替えを書いた。
書けない者は、いなかった。書く中身は、全員がとうに持っている。持っているものを紙に移す型が、なかっただけだ。
書き終えた紙は、隣の席と交換して読み合う。読めない字は書き直し、埋まらない欄は問い直す。読まれると分かっている紙は、書き方が変わる。それも、稽古のうちだった。
「……よく回るものだ」
部屋の後ろで、アルトレインは、それを見ていた。
隣に、ミレイユ。
「議会への答えに、なるか」
「なります」
ミレイユは、即答した。
「オルデン卿の論は、二本の柱です。一つ、非常時に会議は間に合わない。……これには春の記録が答えます。間に合わなかったのは命令のほうでした」
「……ああ」
「二つ、責任の所在が曖昧である。……これに答えるのが、あの様式です。判断には記録があり、検証があり、宛先がある。曖昧なものは、どこにもありません」
一拍。
「むしろ」
「……何だ」
「曖昧だったのは、費えの側です。修繕費の決裁には、宛先がありませんでした。どの机で止まっても、誰の名も残らない。……三月の空白は、仕組みの穴ではなく」
ミレイユは、言葉を選んだ。
「宛先のない場所で、起きています」
「……」
アルトレインは、しばらく黙っていた。
卿の議場での声を、思い出している。
責めを負う者の、命令が要る。
「……オルデン卿の言う『責任』と」
低く、言った。
「エルナの書いた『宛先』は、どこが違う」
「……」
ミレイユは、少し考えた。
「卿の責任は、上に一人で立つものです。全部を負う代わりに、全部を決める。……負える方が立てば、美しく回ります」
「……負えない者が立てば」
「誰も、止められません」
一拍。
「私たちは、それを見ました」
「……ああ」
見た。
誰よりも近くで、自分がそれだった。
「宛先の責任は、横に分かれるものです。判断した人、検証する人、費えを決める人。それぞれの名前が、それぞれの紙に残る。……一人の美しさはありません。代わりに」
「……止まらない、か」
「はい」
アルトレインは、教場に目を戻した。
エルナが、書き取りの遅い文官の隣にしゃがんで、同じ行をもう一度なぞっている。なぞる声は、教場のいちばん後ろまでは届かない。届かなくていい声で、教えている。急がせないための、声の大きさだった。
急がず、飛ばさず。
理解できる人間を増やす。
あの女が条件に入れた一行が、こういう形で、毎朝続いている。
「……様式を、費えにも通す」
アルトレインは言った。
「決裁の書面にも、宛先の行を入れる。どの机で何日留まったか、残る形にする」
「……財務は、嫌がります」
「だろうな」
「理由を問われたら」
「議会で答える」
即答だった。
「責任の所在を明らかにするためだ、と」
ミレイユは、一瞬、目を見開いた。
それから、ほんのわずかに、口元を緩めた。
「……卿の言葉ですね。それは」
「ああ」
アルトレインは、頷いた。
「正しい言葉だ。……誰が使っても、正しく働くのが、正しい言葉だろう」
「責任は消えません。宛先が変わるだけです」――教えているのが、指示を待って動けなかった側の人だ、というのがこの話の芯です。
そして殿下は、敵の正しい言葉を、正しいまま借りることを覚えました。




