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第63話 記録は、残っています

 記録庫の夜は、紙の匂いがする。


 棚は、区分ごとに並んでいる。命令の記録は年と月で、現場判断の控えは場所で、費えの書面は帳面の別で。どの棚のどの箱にも、同じ形の背札が付き、同じ様式の目録が箱の蓋裏に貼ってある。


 初めて入った者でも、四半刻あれば目当ての箱に着く。そういうふうに、作ってある。


 作った人は、もういない。古い箱の背札には、その人の字が残っている。新しい箱の背札は、覚えた者たちの字で書かれている。字は違うのに、様式は同じだから、棚は乱れない。


 グレンとミレイユは、机に春の記録を広げていた。


 増水の日の、命令の記録。現場判断の控え。書面の巡った跡。


 箱にして、三つ。取り出すのに、四半刻もかからなかった。


 全部、残っている。


 残す仕組みを、あの人が置いていったからだ。


「……時系列に、並べます」


 ミレイユが、紙を順に置いていく。


 机の左端を報せの刻限、右端を日暮れと決めて、紙を時の順に、横一列に。控えは机の手前、命令の記録は奥。同じ刻限の紙が、上下に並ぶ格好になる。


 こうして置けば、二つの流れの速さが、目で見える。


 これも、教わった並べ方だった。教えた人は、紙を並べるとき、いつも先に机の端を決めた。端を決めない紙は、どこまでも散らかる、と言って。


「増水の報せが南区から上がったのが、朝の二刻前。水位はその後、一刻で膝まで」


「……ああ」


「現場判断の控え。荷揚げの組頭が、荷を高所へ移すと決めたのが――報せの、すぐ後。人を分けて桟橋の杭を打ち増したのが、半刻後」


 紙が、置かれる。


「桟橋の半分が守られたのは、この判断です。記録では、水が板を越えたのは、その一刻後」


「……」


「では」


 ミレイユは、別の束を引き寄せた。


「同じ朝、命令の経路では何が起きていたか」


 紙が、並ぶ。


 南区の詰所から区の長へ。区の長から王宮へ。受け付けた文官から、担当の棟へ。


「王宮が増水の報せを正式に受理したのが、昼前です」


「……」


「もし命令を待っていたら」


 ミレイユは、淡々と言った。


「杭を打ち増す許しが南区へ届くのは、どんなに早くても夕刻。……水が板を越えた、一刻後です」


「……桟橋は、全部落ちていたな」


「はい」


 沈黙。


 紙の上に、答えが並んでいた。


 夜の記録庫は、答えを急かさない。紙の匂いの中で、二人はしばらく、上下に並んだ刻限を見ていた。上の列と下の列の間に、半日の差がある。半日は、水にとっては十分すぎる長さだった。


 現場の判断は、間に合った。


 命令は、間に合わなかった。


 どちらも、記録が言っている。誰の弁でもなく。


「……オルデン卿は、これをご存じのはずです」


 ミレイユが言った。


「あの方は、記録を読まれます。誰よりも」


「……ああ」


「ご存じの上で、議場では仰いませんでした。現場判断は見事だった、と褒めるに留めて」


 一拍。


「巧い、と思います」


「……」


 グレンは、答えずに、次の束を引き寄せた。


 費えの決裁。三月の空白。


 卿が議場で突いた、こちらの傷のほうだ。


「……巡り先を、辿るぞ」


「はい」


 書面の跡を、二人で追う。


 修繕の見積もりが職人から上がる。区の長が検分し、妥当と記す。王宮が受け、担当の棟が費目を検討する。ここまで、十日。


 悪くない速さだ――と言いかけて、ミレイユは眉を寄せた。


「……止まっています」


「どこで」


「費目の検討から、先です。修繕費をどの帳面から出すか。担当の棟は、二つの案を付けて、財務へ回しています」


 紙を、めくる。


「財務が受け取ったのが、この日付。……次に書面が動いた形跡が」


 めくる。


 めくる。


「……二月半、後です」


「……」


 グレンは、その紙を手に取った。


 受領の印。そして、二月半の、何もない期間。


 却下ではない。検討中でもない。ただ、動いていない。


「……差し戻しの理由も、催促への返答も、残っていないな」


「はい。……正確には」


 ミレイユは、一枚の控えを示した。


「催促は三度、南区側から上がっています。受領印だけが、返っています」


「……」


 三度の催促に、三つの受領印。判で押したように、印だけ。文言の一つも添えられていない。丁寧なのか、丁寧の形をした何かなのか、印は答えない。


 責任の所在が曖昧だから、決まらなかった。


 議場で、卿はそう言った。


 だが記録は、少し違うことを言っている。


 決まらなかったのではない。


 一つの机の上で、動かなかったのだ。


「……ミレイユ」


「はい」


「この帳面の巡りで、財務の手元に留まった月日は、全体のどれだけになる」


 ミレイユは、すでに数えていた。


「三月の空白のうち――二月半。……ほぼ、すべてです」


「……」


 グレンは、静かに紙を置いた。


 窓の外は、もう暗い。


 彼は、あの上程の文言を思い出していた。


 記録および検証については、別に定める。


「……なるほどな」


 低く、呟いた。


「検証されて困る記録が、どこにあるのか」


 一拍。


「ご本人が、いちばんよくご存じだ」

仕組みは、自分の弁護材料を自分で持っていました。残す形にしてあったからです。

そして三月の空白の正体も、同じ棚に残っていました。

記録は誰の味方もしません。それが、いちばん強いところです。

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