第62話 命令なら、すぐ出ます
翌日の南区に、王宮の紋を付けた文官が来た。
騎士は連れていない。護衛が一人と、書役が一人。物腰は丁寧で、声もよく通った。
来る場所も、選んであった。昼下がり、市場の商いが一段落して、荷揚げの男たちが桟橋の袂で一服する刻限。通りでいちばん人が緩む時間に、いちばん人の集まる場所へ、ちょうど立ち話ができる人数で来る。
段取りの分かっている者の、来方だった。
南区は、王宮の触れをそのまま信じない。信じないことまで織り込んだ上での、この人数と、この刻限だった。
「皆さまに、お報せに参りました」
傷んだ桟橋の前。人が、なんとなく集まる。
「議会にて、新しい条項が検討されております。非常時対応条項――難しい名ですが、中身は簡単です」
文官は、桟橋の板を、手で示した。
「こうした傷みに、すぐ銭が下りるようになります」
ざわ、と空気が動いた。
「今は、決められる方がいないのです。誰の責めか、どの帳面から出すか、書面が巡っているうちに三月が経つ。……皆さまが、いちばんご存じのはずだ」
文官は、指を折ってみせた。
「見積もりが上がる。区の長が検分する。王宮が受ける。費目を検討する。帳面の主に回す。……五つの机を渡って、どの机も、間違ったことはしておりません。間違っていないまま、三月でございます」
指が五本、開いたまま止まる。分かりやすい手品のようだった。
「そうだよ」
荷揚げの男の一人が、吐き捨てた。
「板の上を、毎日渡ってんだ。こっちは」
「はい。ですから」
文官は、頷いた。
「命令なら、すぐ出ます。責めを負う方が上に立ち、その方が、出せと仰る。それだけのことです。会議は、要りません」
悪い話に、聞こえなかった。
実際、悪い話ではないのだ。この桟橋一つに限れば。
人々は、半分、頷いていた。
頷いた半分は、板の上を毎日渡っている者たちだ。頷かなかった半分も、反対しているのではない。うまい話の裏がどこにあるのか、まだ探しているだけだった。
「……」
少女は、集まりの端で、それを聞いていた。
隣に、女が立っている。
昨日から、女は宿を取り、通りを歩き、何もしていない。
流れが詰まっても手を出さず、荷が崩れかけても口を出さなかった。少女が見てきた「あの人」は、そういう人ではなかったはずだった。
「……ねえ」
少女は、小声で言った。
「いいの?」
「……何がですか」
「あの人の言ってること。なんか……合ってるみたいに聞こえる」
「合っていますよ」
女は、静かに答えた。
「この桟橋一つには、合っています」
「……じゃあ」
「桟橋は、一つではありません」
女は、文官のほうを見たまま、続けた。
「すぐ出る銭は、すぐ止められる銭です。出せと言える人は、出すなと言える人です。……今日は、出せと言ってくれるでしょう」
一拍。
「明日も、そうとは限りません」
「……」
少女には、半分しか分からなかった。
半分は、分かった。
「……昔は、どうだったの」
「昔は」
女は、少しだけ間を置いた。
「出すなと言われたら、それで終わりでした。間違った命令でも、従うしかなかった。だから――従わなくても回る形に、作り直したんです。時間は、かかるようになりました」
「……それで、桟橋は三月なんだ」
「ええ」
女は、否定しなかった。
「それは、この仕組みの、直っていない場所です」
直っていない、と言った。
間違っている、とは言わなかった。
二つの言い方の違いを、少女はまだ知らない。知らないまま、違うということだけは、聞き分けていた。
「……」
集まりの前では、文官が締めに入っていた。
「条項が通れば、この桟橋は月のうちに直ります。どうか、覚えておいてください。……決められる王宮と、決められない王宮。どちらが皆さまを守るのかを」
一礼して、去っていく。
人々は、ばらけながら、口々に言い合った。悪くない話だ。いや、どうかな。でも三月は長すぎた。それはそうだ。
言い合う声は、夕方には市場の奥まで届くだろう。文官は、その足の速さまで計算に入れて、あの刻限に来たのだ。
「……」
カイルが、女の隣に立った。
「見事なものですね。事実しか言っていない」
「……ええ」
「反論なさらないので? あなたが一言仰れば、この場の空気くらいは」
「……」
女は、首を振った。
「私が言い返して勝てるなら」
一拍。
「この仕組みは、私がいないと守れないということです」
「……」
カイルは、目を細めた。
「……では、どうなさる」
女は、答えなかった。
代わりに、少女のほうを向いた。
「……一つ、訊きます」
「な、何」
「桟橋の修繕。直せる人がいて、直し方も決まっている、と言いましたね」
「うん」
「それは、どこかに書いてありますか」
少女は、まばたきをした。
「……書く?」
「誰が見て、いつ決めて、いくら要るのか」
女の目は、静かなままだった。
「……書いて、ありますか」
「命令なら、すぐ出ます」は、この桟橋一つについては本当のことです。
そして彼女は言い返しません。言い返して勝ったら、負けだからです。
最後の問いが、第3部の彼女の唯一の武器になります。




