第61話 また、来ました
南区の朝は、声から始まる。
夜明け前に荷船が着く。桟橋で荷が揚がり、市場の荷車が並び、水汲みの列が水路の階段に伸びる。荷と水と人が、同じ幅の通りを取り合う刻限が、朝に一度だけある。
昔は、ここで毎朝、怒鳴り合いが起きた。
今は、起きない。荷を先に通し、水汲みを二列に割る。たったそれだけの順序を、通りの全員が知っているからだ。誰が決めたのかは、もう誰も覚えていない。覚えていなくても、回る。
「荷は先に通して! 水汲みは二列!」
少女は、商業通りの角に立って、声を出していた。
この角は、通りの流れが二手に分かれる場所だ。ここに立てば、桟橋も市場の口も、水路の階段も、いっぺんに見える。通りでいちばん、声の通る場所でもある。
いつからか、朝のこの角は、少女の持ち場になっていた。
教えることは、多くない。右か、左か、待つか。三つのうちのどれかを、相手が迷う前に言ってやる。それだけで、通りは詰まらずに流れる。迷ってから言うのでは、遅い。迷う前に言うから、効く。
十一を過ぎた。背は伸びたが、まだ細い。それでも、荷袋を抱えて走るだけだった頃とは、立っている場所が違う。
「え、えっと、どっちに……」
新入りの少年が、荷を抱えたまま固まっている。
「右に三歩。そこから左」
少女は、短く言った。
少年は、迷わず動いた。動けた理由を、たぶん本人は分かっていない。
――間違っていないと、分かる言い方。
昔、誰かがそうやって、この通りを整えた。
少女はそれを、体で覚えている。
「……」
通りの先が、見えた。
水路沿い。桟橋のならび。
その半分に、板が渡されたまま、止まっている。
春の増水で傷んだ桟橋だ。職人たちが応急の板を打ち、そこから先が、続いていない。
応急の板は、渡るたびに鳴る。荷車は通れないから、傷んだ側に着いた船は、荷を人の背で運ぶ。人の背で運べば、朝の荷揚げは倍かかる。倍かかったぶんは、市場の店先で、そのまま値になる。
板が鳴るたび、通りのどこかで、少しずつ高くなっていく値段があった。
職人は、直しの見積もりを二度、出し直している。値は変わらなかった。変わらない値の書いてある紙だけが、返事を待って古びていった。
「銭が下りないんだと」
荷揚げの男たちは、もう怒りもしない。
「偉い人らが、誰が払うか決められないんだそうだ」
「王宮は変わったんじゃなかったのかい」
「変わったさ。変わって、決まらなくなった」
笑い話のように言って、誰も笑わない。
少女は、傷んだ桟橋を見るたび、少しだけ落ち着かなくなる。
整っていないものが、置きっぱなしになっている。
それが、この通りには似合わないと、思うようになってしまった。
「……」
その日の昼だった。
人の流れの向こうに、少女は、ふと足を止めた。
「そこ、止まらないで」
後ろから来た誰かに言われて、慌てて動く。言われた言葉に、聞き覚えがあった。
振り返る。
旅装の一行が、通りに入ってくるところだった。
先頭に、背の高い男。値踏みするように通りを眺めて、面白そうに目を細めている。
その半歩後ろに。
簡素な服の、女がいた。
目立たない。
ただ、その目だけが、異様に静かだった。
「……」
少女は、息を止めた。
忘れたことは、なかった。
名前も知らない。聞けなかった。
行っちゃうの、と訊いた。
ええ、と言われた。でも――
「……」
女が、視線を巡らせる。
通りの流れを。荷の列を。水汲みの二列を。
見る順番に、迷いがなかった。流れの起点から、順に。この通りの見方を知っている者の、目の動きだった。
そして、指示を出しながら立っている少女を、見た。
「……」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、その目が、柔らかくなった。
「……っ」
少女は、駆け出していた。
荷の列を縫って、人の間を抜けて。走りながら、何を言えばいいのか、何も決まらなかった。
目の前で、止まる。
息が切れて、言葉が出ない。
「……」
女は、急かさなかった。
ただ、待っていた。
「……ほんとに」
やっと、それだけ出た。
「ほんとに、来た」
「……」
女は、少しだけ考えるように目を伏せて。
それから、言った。
「また、来ます、と言いました」
それだけだった。
それで、十分だった。
「……うんっ」
少女は、何度も頷いた。目の奥が熱くなって、それを見られたくなくて、また頷いた。
「……ほう」
背の高い男――カイルが、通りの先に目をやる。
「整った通りだ。……ああ、なるほど」
傷んだ桟橋で、視線が止まった。
「一箇所だけ、止まっている」
「……」
女も、そちらを見ていた。
板が渡されたままの、桟橋の半分。三月、置きっぱなしの傷。
「あれね、銭が下りないの」
少女が言った。
「直せる人はいるの。直し方も決まってるの。でも、誰が払うか決められないんだって」
「……」
「ねえ」
少女は、女を見上げた。
「あなたが言えば、直るんじゃないの」
女は、すぐには答えなかった。
桟橋を見たまま、静かに、息を一つ。
「……直るでしょうね」
一拍。
「だから、言いません」
約束が、払われました。「また、来ます」(第30話)から、ずいぶん経ちました。
荷袋を抱えて走っていた子は、流れを教える側になっています。
そして最後の一言――「直るから、言わない」。第3部のリディアは、ここに立ちます。




