↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
61/74

第61話 また、来ました

 南区の朝は、声から始まる。


 夜明け前に荷船が着く。桟橋で荷が揚がり、市場の荷車が並び、水汲みの列が水路の階段に伸びる。荷と水と人が、同じ幅の通りを取り合う刻限が、朝に一度だけある。


 昔は、ここで毎朝、怒鳴り合いが起きた。


 今は、起きない。荷を先に通し、水汲みを二列に割る。たったそれだけの順序を、通りの全員が知っているからだ。誰が決めたのかは、もう誰も覚えていない。覚えていなくても、回る。


「荷は先に通して! 水汲みは二列!」


 少女は、商業通りの角に立って、声を出していた。


 この角は、通りの流れが二手に分かれる場所だ。ここに立てば、桟橋も市場の口も、水路の階段も、いっぺんに見える。通りでいちばん、声の通る場所でもある。


 いつからか、朝のこの角は、少女の持ち場になっていた。


 教えることは、多くない。右か、左か、待つか。三つのうちのどれかを、相手が迷う前に言ってやる。それだけで、通りは詰まらずに流れる。迷ってから言うのでは、遅い。迷う前に言うから、効く。


 十一を過ぎた。背は伸びたが、まだ細い。それでも、荷袋を抱えて走るだけだった頃とは、立っている場所が違う。


「え、えっと、どっちに……」


 新入りの少年が、荷を抱えたまま固まっている。


「右に三歩。そこから左」


 少女は、短く言った。


 少年は、迷わず動いた。動けた理由を、たぶん本人は分かっていない。


 ――間違っていないと、分かる言い方。


 昔、誰かがそうやって、この通りを整えた。


 少女はそれを、体で覚えている。


「……」


 通りの先が、見えた。


 水路沿い。桟橋のならび。


 その半分に、板が渡されたまま、止まっている。


 春の増水で傷んだ桟橋だ。職人たちが応急の板を打ち、そこから先が、続いていない。


 応急の板は、渡るたびに鳴る。荷車は通れないから、傷んだ側に着いた船は、荷を人の背で運ぶ。人の背で運べば、朝の荷揚げは倍かかる。倍かかったぶんは、市場の店先で、そのまま値になる。


 板が鳴るたび、通りのどこかで、少しずつ高くなっていく値段があった。


 職人は、直しの見積もりを二度、出し直している。値は変わらなかった。変わらない値の書いてある紙だけが、返事を待って古びていった。


「銭が下りないんだと」


 荷揚げの男たちは、もう怒りもしない。


「偉い人らが、誰が払うか決められないんだそうだ」


「王宮は変わったんじゃなかったのかい」


「変わったさ。変わって、決まらなくなった」


 笑い話のように言って、誰も笑わない。


 少女は、傷んだ桟橋を見るたび、少しだけ落ち着かなくなる。


 整っていないものが、置きっぱなしになっている。


 それが、この通りには似合わないと、思うようになってしまった。


「……」


 その日の昼だった。


 人の流れの向こうに、少女は、ふと足を止めた。


「そこ、止まらないで」


 後ろから来た誰かに言われて、慌てて動く。言われた言葉に、聞き覚えがあった。


 振り返る。


 旅装の一行が、通りに入ってくるところだった。


 先頭に、背の高い男。値踏みするように通りを眺めて、面白そうに目を細めている。


 その半歩後ろに。


 簡素な服の、女がいた。


 目立たない。


 ただ、その目だけが、異様に静かだった。


「……」


 少女は、息を止めた。


 忘れたことは、なかった。


 名前も知らない。聞けなかった。


 行っちゃうの、と訊いた。


 ええ、と言われた。でも――


「……」


 女が、視線を巡らせる。


 通りの流れを。荷の列を。水汲みの二列を。


 見る順番に、迷いがなかった。流れの起点から、順に。この通りの見方を知っている者の、目の動きだった。


 そして、指示を出しながら立っている少女を、見た。


「……」


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、その目が、柔らかくなった。


「……っ」


 少女は、駆け出していた。


 荷の列を縫って、人の間を抜けて。走りながら、何を言えばいいのか、何も決まらなかった。


 目の前で、止まる。


 息が切れて、言葉が出ない。


「……」


 女は、急かさなかった。


 ただ、待っていた。


「……ほんとに」


 やっと、それだけ出た。


「ほんとに、来た」


「……」


 女は、少しだけ考えるように目を伏せて。


 それから、言った。


「また、来ます、と言いました」


 それだけだった。


 それで、十分だった。


「……うんっ」


 少女は、何度も頷いた。目の奥が熱くなって、それを見られたくなくて、また頷いた。


「……ほう」


 背の高い男――カイルが、通りの先に目をやる。


「整った通りだ。……ああ、なるほど」


 傷んだ桟橋で、視線が止まった。


「一箇所だけ、止まっている」


「……」


 女も、そちらを見ていた。


 板が渡されたままの、桟橋の半分。三月、置きっぱなしの傷。


「あれね、銭が下りないの」


 少女が言った。


「直せる人はいるの。直し方も決まってるの。でも、誰が払うか決められないんだって」


「……」


「ねえ」


 少女は、女を見上げた。


「あなたが言えば、直るんじゃないの」


 女は、すぐには答えなかった。


 桟橋を見たまま、静かに、息を一つ。


「……直るでしょうね」


 一拍。


「だから、言いません」

約束が、払われました。「また、来ます」(第30話)から、ずいぶん経ちました。

荷袋を抱えて走っていた子は、流れを教える側になっています。

そして最後の一言――「直るから、言わない」。第3部のリディアは、ここに立ちます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。