第60話 誰の責任ですか
議場は、静かだった。
審議の朝の議場には、決まった支度がある。写しが人数分刷られ、席の右肩に置かれる。発言の順は札で示され、壇の書役が二人、記録の筆を並べる。筆は一人二本。主筆と、替えの筆。発言の速い議員に当たった日のために、替えは先に墨を含ませておく。開会の鐘は二度。一度目で私語が絶え、二度目で扉が閉まる。
その静けさの中に、オルデン卿は立っていた。
小柄な、白髪の老人だった。装いは家格より一段地味で、供も一人しか連れていない。手元の紙は薄く、それも、ほとんど見なかった。
声を、張らない。
張る必要のない者の話し方を、していた。
議場には、声で押す者と、数字で押す者がいる。声は議事録に残ると軽くなり、数字は残ると重くなる。長くこの議場にいる者ほど、それを知っている。
「……この春の、増水の件でございます」
手元の紙を、めくりもしない。数字は、頭に入っている。
「王都南区。水路の水位が上がり、商業通りの桟橋が傷みました。皆さま、ご記憶かと」
議場の幾人かが、頷く。
南区の桟橋は、荷の揚げ降ろしの要だった。水路を上ってきた荷船は、あそこで市場の荷車に積み替える。桟橋が半分になれば、荷は半分ずつしか揚がらない。揚がらない荷は水路に並び、並んだ船は上流の橋をふさぐ。傷んだのは板と杭だが、痛むのは、王都の胃袋のほうだった。
「あの折、現場は自らの判断で動きました。荷を上げ、人を分け、桟橋の半分を守り切った。……見事なものです」
皮肉ではなかった。
オルデン卿は、本当にそう思っている声で言った。
「現場の判断を優先するという、あの条件。あれは、機能いたしました。記録も残っております。私はそれを、疑いに参ったのではございません」
一拍。
「では――壊れた半分は、誰が直すのでございますか」
「……」
議場が、わずかに動いた。
「桟橋の修繕には、費えが要ります。現場は判断できます。ですが、現場は金庫を持ちません」
静かに、続ける。
「費えを出すと決めるのは、誰か。その責めを負うのは、誰か。……この問いが、三月のあいだ、宙に浮きました」
「……」
「書面は回りました。判断は分かれた場所で下される、あの立派な仕組みのとおりに。どの場所も、誠実に検討いたしました。誠実に検討して、誰も、決めませんでした」
オルデン卿は、そこで初めて、顔を上げた。
「南区の桟橋は、今も半分、傷んだままでございます」
「……」
誰も、言い返さなかった。
言い返せる者が、いなかった。
書役の筆だけが、動いている。言葉の途切れた議場では、筆の音は存外に響く。その音ごと、記録に呑まれていくような静けさだった。
「責任の所在が曖昧な仕組みは、平時には美しゅうございます。ですが非常のとき、人を守りません」
「……」
「非常のときに要るのは、会議ではございません」
一拍。
「命令でございます。責めを負う者の、命令が」
その言葉は、重く、正しく響いた。
――正しく、聞こえるように、できていた。
「……」
末席で、ミレイユ・クラウスは黙って手元に書き付けていた。
書き付けには、彼女なりの型がある。相手の論を、柱に分けて書く。柱ごとに、支えている事実を書き添える。反論は書かない。反論を先に書くと、相手の柱を読み違えるからだ。
紙の上に、柱が二本、立っていた。
非常時に会議は間に合わない。責任の所在が曖昧である。
費えの決裁。三月の空白。
卿の言うことは、事実だ。数字も、たぶん合っている。あの家の数字は、いつも合っている。
だから、怖い。
事実の柱は、蹴っても折れない。折るには、柱の下を掘るしかない。掘る道具も、事実でなければならない。
「……」
壇の側で、アルトレインは何も言わなかった。
ただ、聞いていた。
昔の彼なら、途中で遮っていただろう。正しさで殴り返すか、権威で黙らせるか、どちらかをしていただろう。
今は、しない。
最後まで聞いてから、短く問うた。
「……オルデン卿」
「は」
「条項の末尾。記録と検証は、別に定める、とある」
「……はい」
「いつ、定める」
オルデン卿は、わずかに間を置いた。
慌てた間ではない。答えを選ぶ間だった。
「非常時の記録は、後日、必要に応じて」
「……必要に応じて」
「非常の渦中に、筆を持つ手はございません。まず人を守り、紙は後から。……それだけのことでございます」
それだけのこと。
そう聞こえる言い方を、していた。
「……」
アルトレインは、それ以上問わなかった。
問わずに、覚えた。
散会の鐘が鳴り、議場が緩む。
オルデン卿は深く一礼して、静かに退出していった。派手なことは、何一つしなかった。退出の足取りまで、決裁の字と同じだった。急がず、乱れず、同じ歩幅で。
「……殿下」
ミレイユが、近づく。
「……何だ」
「あの方は、嘘を一つも仰っていません」
「……ああ」
「事実だけで、あそこまで運べる方です」
一拍。
「厄介です」
「……ああ」
アルトレインは、頷いた。
嘘なら、暴けばいい。
事実は、暴けない。
事実には、事実で答えるしかない。
「……調べるぞ」
「はい」
「三月の空白。……どこで、浮いていたのかを」
敵役は声を張りません。事実だけで運んでくる人です。
「壊れた半分は、誰が直すのか」――この問いは実在する弱点なので、仕組みの側も事実で答えるしかありません。




