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第56話 一度だけ、座る

 仕組みは、作り直された。


 端は、分けられた。


 誰かが直した綻びには、名が残るようになった。修正前、修正後、そして――直した者の名。


 だから、綻びは、もう、一人のところへ、戻らなかった。


 王宮は、静かに、回っていた。


 二季前と、同じように。


 けれど、その静けさを、支えているものは、もう、一人では、なかった。


「……終わりましたね」


 エルナが、言った。


「……ええ」


 女は、うなずいた。


「……なら」


 カイルが、外套を、放った。


「……次だな」


「……」


 女は、それを、受け取った。


 いつものように。


 整えて、残さず、去る。


 その、はずだった。


「……宰相閣下に、挨拶を」


 女は、そう言って、執務室へ、向かった。


 グレンは、机に、向かっていた。


 顔を上げて、女を見て――それから、その手の、外套に、気づいた。


「……行くのか」


「……ええ」


「……」


 グレンは、何か言おうとして、やめた。


 いつものように、業務の言葉で、締めようとした。


「……ご苦労だった」


「……」


「……王宮は、もう、大丈夫だ」


「……ええ」


 女は、うなずいた。


 それから、机の端の、椅子を、見た。


 二季と、少し。誰も、座らなかった椅子だった。


 埃のない、あの椅子だった。


「……宰相閣下」


「……何だ」


「……この椅子は」


 一拍。


「……もう、動かしても、いいのでは」


「……」


 グレンは、答えなかった。


 女は、その沈黙を、見ていた。


 それから、静かに、椅子に、手をかけた。


 引く。


 木が、床を、低く鳴らした。


 そして――座った。


 二季と、少しぶりに。


 その椅子に、人が、座った。


「……」


「……」


 グレンは、その姿を、見ていた。


 言い訳は、いくつも、用意してあった。席次の都合。動かすと面倒。予備がない。


 どれも、口に、出さなかった。


「……座り心地は」


 やっと、それだけ、言った。


「……変わりません」


 女は、静かに、答えた。


「……二季、経っても」


「……」


 女は、しばらく、そこに、座っていた。


 窓の外を、見て。机に積まれない書類を、見て。それから、グレンを、見た。


「……宰相閣下」


「……何だ」


「……あなたは、この椅子を、動かさなかった」


「……」


「……予備は、いくらでも、あるのに。……なぜですか」


「……」


 グレンは、長いあいだ、黙っていた。


 用意した言い訳を、全部、捨てて。


「……戻る場所が、要ると、思った」


 やっと、そう言った。


「……あなたが、いつか、ふらりと、戻ってきた時に」


「……座る場所が、なければ、困る」


「……」


 女は、その言葉を、聞いた。


 いつもなら、「必要ありません」と、答えるところだった。


 仕組みは、もう、彼女を、必要としない。だから、戻る場所も、要らない。


 そのはずだった。


「……」


 女は、立ち上がった。


 そして、椅子を、そっと、元の位置に、戻した。


 来た時と、同じ場所に。


「……必要ありません」


 静かに、言った。


「……仕組みは、もう、私を、必要としません」


「……」


 グレンの、目が、伏せられた。


「……ですが」


 女は、続けた。


「……仕組みが、私を、必要としないことと」


 一拍。


「……あなたが、この椅子を、遺すことは」


「……別の、話です」


「……」


 グレンが、顔を、上げた。


「……人は、仕組みでは、ありません」


 女は、静かに、言った。


「……だから――遺しても、いい」


「……この椅子だけは」


「……」


 グレンは、その椅子を、見た。


 それから、女を、見た。


「……わかった」


 静かに、言った。


「……動かさない」

この作品で、いちばん書きたかった一話です。派手な告白も、抱擁もありません。ただ、二季と少し、誰も座らなかった椅子に、彼女が一度だけ座りました。

「必要ありません」――いつもの言葉が、今度は、少し違う意味を帯びます。仕組みは、もう彼女を必要としない。けれど、それと、この椅子を遺すことは、別の話。

人は、仕組みではないから。遺しても、いい。

次話、あらすじの約束が、果たされます。

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