第51話 抜けば空白が単一点になる
その夜だった。
グレンは、女に、一つの提案をした。
言葉は、短かった。
「……私が、退く」
女は、顔を上げた。
手にしていた記録の束が、机の上で、止まる。
「……何を、おっしゃっているのですか」
「……単一点が、私だというなら」
グレンは、静かに言った。
「……私が、消えればいい。……そうすれば、依存の先が、なくなる」
燭台の火が、わずかに揺れた。
「……ロヴィスが座る前に、私が、この椅子を、空ける」
「……」
女は、しばらく、彼を見ていた。
急がなかった。
それから、静かに、首を振った。
「……いいえ」
「……なぜだ」
「……あなたが抜ければ」
一拍。
「……今度は、空白が、単一点になります」
「……」
グレンは、言葉を、返せなかった。
「……あなたが埋めていた端を、誰も、埋められなくなる」
女は、続けた。
「……その"埋める人がいない"という空白へ、判断が、集まっていく」
「……水は、低い方へ流れます」
女は、以前と同じ言葉を、繰り返した。
あの、商業都市でも言った言葉だ。
「……一番低い場所が、あなたなら、あなたへ」
「……あなたが消えて、次に低い場所ができれば、そこへ」
「……単一点は、人を、替えて、生き延びます」
「……」
グレンは、黙った。
女の言う通りだった。
自分が消えても、問題は、消えない。
ただ、別の誰かが、自分の代わりに、潰れるだけだ。
東棟の誰か。……厨房の誰か。……顔の見えない、次の誰かが。
そして、その者も、また、名を伏せて抱える。
「……では、どうする」
グレンは、問うた。
「……集めるのが、間違い」
女は、指を、一つ折った。
「……散らすのも、できない」
もう一つ、折る。
「……ならば」
「……分けます」
女は、静かに言った。
「……集めるのでも、散らすのでもなく――分ける」
「……」
「……あなたが、一人で見ていた端を、いくつかに、分ける」
「……一人では、抱えきれない量を、複数の手が、少しずつ持つ」
「……そして、その分け方を、記録に残す」
「……誰が、どこを持っているか。……誰でも、見えるように」
「……そうすれば」
一拍。
「……一人が倒れても、その一人分だけが、空く」
「……全部は、崩れません」
「……」
グレンは、女の顔を、見た。
二季ぶりに、この人の、設計を、聞いていた。
同じ声で。同じ、淡々とした運びで。
「……それは、私が退くより」
「……ずっと、地味です」
女は、淡々と言った。
「……速くも、ありません。……美しくも、ないでしょう」
「……ですが」
女は、机の端の椅子に、目をやった。
誰にも座らせていない、あの椅子に。
「……あなたを、また、一人にはしません」
「……」
グレンは、その言葉を、聞いた。
仕組みの話をしているはずだった。
それなのに、その一言だけは、なぜか、仕組みの話には、聞こえなかった。
「……」
女は、記録の束を、抱え直した。
「……宰相閣下」
女は、立ち上がった。
椅子が、小さく鳴った。
「……明日から、端を、記録にします」
グレンは、自分が退けば依存が消えると考えました。けれどリディアは止めます。抜けば、今度は"空白"が単一点になる。単一点は、人を替えて生き延びる、と。
集めるのでも、散らすのでもなく――分ける。地味で、速くもなく、美しくもない。けれど、あなたをまた一人にはしません。
仕組みの話のはずが、その一言だけは、少し違って聞こえました。




