第50話 それは、私が壊したものです
ロヴィスは、翌日、視察から戻ってきた。
線の細い、落ち着いた足取りだった。
執務室に、女がいることを知っても、彼は、動じなかった。
むしろ、微笑んだ。
「……ああ」
彼は、静かに言った。
「あなたが、前任の方ですか」
「……」
「お会いしたかった。ずっと、あなたの記録を、読んでいましたので」
女は、答えなかった。
ただ、彼を、見ていた。
値踏みではない。
確かめる目だった。
「素晴らしい記録です」ロヴィスは、続けた。「あれほど整った調整の記録を、私は、他に知りません。……ですが」
「……惜しい」
彼は、女の前に、一枚の紙を置いた。
女の作った、調整記録の形式だった。
日付、部署、内容、修正前、修正後。
彼の手で、丁寧に書き写されていた。
「あなたの仕組みには、穴があります」
紙の、末尾を指で叩く。
「……穴」
「ええ。……誰が綻びを埋めたか、記録に残らない。だから、いつまでも、"誰か"が埋め続けなければならない。……その"誰か"が倒れれば、終わりだ」
女は、その紙を、見た。
「……それで」
「集めるのです」ロヴィスは、当然のように言った。「散らばった判断を、一箇所に。すべての綻びを、一人が見る。そうすれば、"誰が埋めたか"は、常に明らかだ。……美しい」
「私が、その一人になります」彼は、微笑んだ。「あなたの仕組みを、私が、完成させる」
「……」
女は、長いあいだ、黙っていた。
紙の一行を、目でなぞりながら。
書き写した手が、丁寧だった、とだけ思った。
それから、静かに、口を開いた。
「……あなたは、正しい」
「……」
グレンが、驚いて、女を見た。
「……綻びが、記録に残らないのは、私の設計の、穴です。……それは、認めます」
「では――」
「……ですが」
女は、彼の言葉を、遮った。
「……あなたの答えは、間違っています」
「……」
「……すべてを、一人が見る。……それは」
一拍。
「……私が、壊したものです」
ロヴィスの微笑みが、わずかに、揺れた。
「……壊した?」
「……ええ」
女は、静かに続けた。
「……かつて、この王宮は、すべてが私のところへ流れてきました。私が、一人で、すべてを見ていた。……速かった。正確でした。……あなたの言う、美しい形です」
「……そして、私がいなくなった途端、王宮は、止まりました」
「……」
その一言に、覚えのある者が、この部屋にいた。
「……一人に集めるということは、その一人が消えれば、すべてが消える、ということです」
「……あなたは、私と、同じ間違いを、しようとしている」
ロヴィスは、しばらく、女を見つめた。
言葉を、探しているようだった。
それから、微笑みを、取り戻した。
「……私は、消えません」
静かに言う。
「私は、あなたと違って、去りません。……ここに、居続ける。……ならば、問題は、ないでしょう」
「……」
女の目が、細くなった。
「……居続ける」
「ええ」
「……それは」
一拍。
「……いちばん、質の悪い依存です」
「……」
ロヴィスは、答えなかった。
微笑みだけが、貼りついていた。
女は、紙を、机に戻した。
置いた指を、離す。
「……あなたは、正しく学びました」
静かに言う。
「……ただ、目的を、取り違えている」
「……仕組みは、一人を、要らなくするためのものです」
「……一人を、必要にするための、ものでは、ありません」
模倣者ロヴィスとの、最初の対面です。彼は正しく学んでいました。リディアの穴(綻びが記録に残らない)を、誰よりも正確に突いてきます。
けれど、その答え――"すべてを一人が見る"は、リディアが第1部で壊したものそのものでした。「私は去らない、居続ける」と言うロヴィスに、リディアは静かに返します。それが、いちばん質の悪い依存だと。
問題の全貌が出揃いました。次話から、設計し直します。




