第48話 まだ、誰も座っていません
女が王宮に着いたのは、夜だった。
正面からでは、なかった。
南区の裏手。かつて彼女が市井を整えた、あの商業通りを抜けて。誰にも名乗らず、灯りの落ちた廊下を進み、執務室の扉の前に、立った。
グレンは、その気配で、顔を上げた。
「……」
二季ぶりだった。
旅の埃をかぶった外套。淡々とした目。
何も、変わっていなかった。
「宰相閣下」
女は、静かに言った。
「……お久しぶりです」
「……」
グレンは、すぐには、言葉が出なかった。
言いたいことは、いくつもあった気がした。二季のあいだ、机の端で、何度も、頭の中で並べたはずだった。
それが、いざとなると、ひとつも、形にならなかった。
結局、口をついて出たのは、いつもの、業務の言葉だった。
「……崩れているぞ」
「……存じております」
「西棟が、止まった。控えの束は、一箇所にまとめられて――」
「――誰が、埋めていたのですか」
女は、彼の言葉を、遮った。
「……」
「二季のあいだ。……私がいなくなった後の、端の綻び。……誰が、埋めていたのですか」
「……」
グレンは、答えなかった。
答えたくない、のではなかった。
答えなくても、この女には、もう、わかっているようだった。
彼女の視線が、ゆっくりと、机の端へ、動いた。
そこに、椅子があった。
彼女が、最後まで使っていた椅子だった。
二季のあいだ、誰も座らなかった椅子だった。
「……」
女は、その椅子を、じっと見た。
埃は、なかった。
誰も座らないのに、誰かが、拭いていた。
「……どうして」
「……席次の、都合だ」
グレンは、用意していた言い訳を、口にした。
「……動かすと、面倒でな」
「……」
女は、何も言わなかった。
ただ、その言い訳が、嘘であることを、たぶん、わかっていた。
「……」
「……」
沈黙が、流れた。
けれど、それは、気まずい沈黙では、なかった。
二人だけが、同じものを見ている沈黙だった。
東棟の余りが、いつから、いくつになっていたか。西棟が、どこを削ったか。誰かが記録に残さなかった修正が、どこで、次の綻びを生んだか。
言葉にしなくても、二人には、同じ絵が、見えていた。
この王宮で、それが見えるのは、二人だけだった。
――ずっと、そうだった。
断罪の夜も。崩壊の日も。この、静かな夜も。
「……宰相閣下」
女が、口を開いた。
「……あなたは、よく、保ちました」
「……」
「……二季のあいだ。たった一人で、端を埋め続けた。……誰にも、気づかれずに」
「……それは、簡単なことでは、ありません」
グレンは、初めて、目を伏せた。
「……買いかぶりだ」
「……いいえ」
女は、静かに、首を振った。
「……ただ」
一拍。
「……あなた一人に、させてしまいました」
「……」
「……それは、私の、設計の失敗です」
女は、そう言って、椅子に、手を触れた。
座りは、しなかった。
ただ、背もたれに、指先を、そっと、置いた。
冷たい木の感触が、二季の時間を、数えるようだった。
「……直します」
顔を上げた女の目は、いつもの、淡々とした目に、戻っていた。
「……今度こそ、誰にも――あなたにも、依存しない形に」
「……」
グレンは、その横顔を、見た。
二季ぶりに。
この執務室に、同じものを見る、二つの視線が、戻ってきた。
――静かに、動きが、始まる。
再会です。派手な言葉も、抱擁もありません。ただ、二季ぶりに、同じものを見る二人が、同じ部屋に戻ってきました。
"椅子"は、まだ誰も座らせていませんでした。埃は、ありませんでした。彼女は、座りませんでした。ただ、指先を、そっと置いた。
この作品の恋愛は、たぶん、こういう温度で進みます。
次話、依存が"どこに移っていたか"を、二人で突き止めます。




