第47話 私が要る話ではない
その街は、名を持たなかった。
地図の隅に、点だけがある。
名を書き入れる者が、誰もいなかったのだろう。
女たちが通り過ぎてきた、いくつめかの街だった。
いくつめか、もう数えていない。
崩れかけていた市場を、女は三日で整えた。
順番を決め、損の大きい者から先に通す。
それだけで、流れは戻った。
新しく足したものは、何もない。
「……もう、いいでしょう」
女は、荷を背負い直した。
背の荷は、来た時と同じ重さだ。
置いていくものは、ない。
「……維持できます。人が、理解しました」
エルナは、もう驚かなかった。
「……はい」
ただ、そう答えた。
この人は、いつもそうだ。
整えて、残さず、去る。
名も、告げずに。
ミレイユが、地図を畳む。
「……次は」
「……決めていません」
カイルが、軽く笑った。
「……相変わらずだな」
「……」
その時だった。
街道の向こうから、馬が一頭、駆けてきた。
土埃が、細く尾を引いている。
乗っていたのは、見覚えのある顔だった。
ヴァルシュタイン家の、使いの者だった。
こんな街まで、追ってきたのか。
「……お捜し、いたしました」
息を切らして、男は言った。
鞍から降りる足が、もつれていた。
「……執事長ローレンツより、言伝を」
女は、振り返らなかった。
「……必要ありません」
背を向けたまま、そう言った。
「……王宮が、」
「……」
「……また、崩れております」
女は、少しだけ、足を止めた。
「……」
それでも、振り返らなかった。
「……なら、直せばいい」
声は、平らだった。
「……人が、理解しているはずです」
あっさりと言う。
「……私が、要る話では、ありません」
「……」
使いの男は、言葉に詰まった。
それから、懐から一枚の紙を取り出した。
握りしめて、皺になっていた。
「……ですが、これを」
女は、受け取らなかった。
代わりに、エルナが受け取り、目を通した。
「……」
エルナの顔が、こわばった。
紙を持つ指が、止まる。
「……どうした」
カイルが、覗き込む。
そこには、書き写された記録があった。
王宮の、調整記録だった。
整った、標準の形式で。日付、部署、内容、修正前、修正後。
女が、残した形だった。
誰が見ても同じに読める。そのために、作った形だ。
ただ、その末尾に、一行、添えられていた。
――前任者の方式に基づき、判断を一元化。以後、すべて本官が管理する。
「……」
女は、その一行を、横目で見た。
目だけを、動かして。
「……」
長い、沈黙だった。
風が、荷の紐を鳴らした。
「……一元化」
女は、静かに繰り返した。
「……私の、名で」
「……」
エルナが、息を呑んだ。
この人が、感情を声に乗せるのを、久しぶりに見た気がした。
あの商業都市を出て以来、一度も、なかった。
「……それは」
女は、荷を、下ろした。
地面に、音もなく。
「……私が、壊したものです」
「……」
「……」
女は、初めて、街道の先――王都のある方角を、見た。
二季のあいだ、背を向けていた方角だった。
「……行く」
「……え?」
エルナの声が、裏返った。
「……崩れたから、ではありません」
女は、歩き出した。
荷を、背負い直しもせずに。
「……私の名で、依存が作られたからです」
「……それだけは」
一拍。
「……見過ごせません」
視点がリディア側に戻りました。「崩れたから」では、彼女は動きません。人が理解していれば、また直せばいい――それが彼女の主義でしたから。
けれど今回だけは違いました。彼女の"名で"、彼女が最も嫌った依存が、作られていた。
次話、二季ぶりの再会です。




