第44話 誰よりも正しく
男は、ロヴィスと名乗った。
他領で、傾いた行政を、いくつも立て直してきたのだという。
招いたのは、財務を預かる貴族筋だった。名は、告げられなかった。
その筋が、なぜ今になって動いたのか。
グレンは、まだ、量りかねていた。
「王宮の制度は、素晴らしい」
ロヴィスは、開口一番、そう言った。
世辞ではない、とグレンは思った。目が、書類の背を追っている。
「ですが――惜しい。まだ、完成していません」
グレンは、黙って、相手を見た。
線の細い、落ち着いた男だった。声を張らない。歳の頃は、グレンと変わらない。
よく手入れされた指先が、記録の束を、捲っていく。
その捲り方を見て、グレンは少し、意外に思った。
速い。
そして、正しい。
どの数字が、どこへ繋がるか。どの記録が、どの記録の"修正前"にあたるか。
彼は、迷わず、辿っていく。目次も引かず、頁の端の折り目だけを頼りに。
――読めている。
この仕組みを、正しく読める人間を、グレンは彼女以外に、初めて見た。
「よくお分かりだ」
思わず、そう漏らした。
「学びました」ロヴィスは微笑んだ。「この記録を残された方に。……お名前は、存じ上げませんが」
「知らなくていい。それが、あの人の望みだ」
グレンは、いつもの答えを返す。
ロヴィスは、少しだけ、首をかしげた。
それから、束の一枚を抜き出して、机に置いた。指先で、綻びの一行を、まっすぐに指した。
昨夜、グレンが一行書き足した、あの控えだった。
「これは、どなたが?」
「……さて」
「余りが二つ。それを、誰かが黙って埋めている」
ロヴィスは、静かに言った。
「……美しくない」
「本来、こういう綻びは、残してはいけない。誰が埋めたかわからない修正は、次にまた、綻びを生む」
正しい。
グレンは、認めざるを得なかった。
彼女なら、同じことを言っただろう。言葉の順番まで、同じに。
「では、どうする」
「集めます」
ロヴィスは、当然のように、言った。
「散らばった判断を、ひとつにまとめる。誰が埋めたかわからない修正が、起きないように」
一枚の控えを、指で、とんと叩く。
「すべての綻びを、一人が見る。私が」
「……」
グレンは、少し、間を置いた。
「一人が、見る」
「ええ。その方が、速い。正確です」
ロヴィスの言葉に、淀みは、なかった。
現に、彼が来て三日で、滞っていた陳情が、いくつも片付いた。
棚の奥へ回されるはずだった束が、その日のうちに、決裁の印を得ていく。
机の上は、日ごとに、平らになっていった。
周囲の文官たちは、感嘆していた。
「さすがだ」
「あの方が来てから、迷いがなくなった」
迷いがなくなった。
その言葉が、グレンの胸の底で、小さく、引っかかった。
「……」
迷わなくなったのは。
――考えなくなった、ということでは、ないのか。
その夜、グレンは、いつもの控えの束を、探した。
いつもの、棚の、いつもの隅を。
なかった。
ロヴィスが、まとめて引き取っていた。
「一箇所で管理します」と、丁寧な書き置きを、添えて。字の隅々まで、正しかった。
「……」
合理的だった。
文句の、つけようが、なかった。
それなのに、グレンの手は、しばらく、机の上をさまよっていた。
埋めるべき綻びを、探すように。
指先が、覚えていた。もう、そこに、ない紙を。
その手を、グレンは、静かに引いた。
ロヴィス、登場です。彼はリディアの残した仕組みを、誰よりも正しく読みます。読めるからこそ――"すべてを一人に集める"という、正しく見えるやり方を選びました。
それは、リディアが第1部で最も嫌い、壊したものでした。
次話、それに気づく人がもう一人。よろしければ応援を。




