【第413話:崩れる理】
異形が腕を振った瞬間だった。
谷全体を覆う空気が歪む。
世界そのものが捻じ曲げられたような感覚が走った。
クロナは即座に後方へ跳ぶ。
イエガンも反射的に距離を取る。
ティナは岩陰へ飛び込んだ。
次の瞬間だった。
三人が立っていた場所が消える。
爆発ではない。
破壊でもない。
抉り取られたわけでもない。
そこだけが最初から存在しなかったかのように消滅していた。
「本当に滅茶苦茶だな」
クロナは笑う。
その瞳はますます輝いていた。
強敵との戦いを心から楽しんでいる。
イエガンは額の汗を拭った。
豪快な彼ですら冷や汗を流している。
今まで経験したことのない敵だった。
「クロナ様。流石に笑ってる場合じゃねえと思うんですが」
クロナは肩を竦める。
「そうか?俺は久々に楽しいぞ」
イエガンは呆れたように息を吐く。
だが不思議と安心もしていた。
王が動揺していない。
それだけで士気は保たれる。
異形が再び歩き出す。
一歩だけだった。
しかし景色が揺らぐ。
距離感が狂う。
遠くにいたはずなのに近い。
近いはずなのに遠い。
ティナは歯を食いしばる。
認識そのものへ干渉されている。
まともな判断が難しい。
「クロナ様」
ティナが呼ぶ。
「何か見えたか」
「少しだけです」
ティナは異形から目を離さない。
「法則を無視しているわけではありません」
クロナの眉が僅かに動く。
「ほう」
「法則そのものを書き換えているんです」
その言葉にイエガンが顔をしかめる。
意味は理解できない。
だが危険だということだけは分かった。
異形の周囲で空間が揺れる。
黒い外殻が脈打つ。
まるで呼吸をしているようだった。
クロナはその姿を見つめる。
今まで喰らってきた力を思い出す。
精霊。
喰界王。
影王。
鬼王…そして魔王。
数え切れない力を積み重ねてきた。
だが目の前の存在は違う。
力の量ではない。
在り方そのものが異なる。
「なるほどな」
クロナは静かに呟く。
「だから面白い」
その瞬間だった。
異形の目が増える。
一つだったはずの目が二つになる。
二つが四つになる。
さらに八つへ増殖する。
ティナの背筋に悪寒が走った。
見てはいけない。
本能が警告している。
だが視線を逸らせない。
増えた目が一斉にクロナを見る。
谷全体の空気が重くなった。
周囲の岩盤が悲鳴を上げる。
「来ます!」
ティナが叫ぶ。
異形が腕を上げる。
その動作は遅かった。
だが次の瞬間には攻撃が始まっていた。
空が割れる。
地面が裂ける。
重力が乱れる。
無数の異常現象が同時に発生した。
クロナは笑った。
全身から黒い魔力が噴き出す。
雷が奔る。
炎が唸る。
風が巻き起こる。
影が大地を覆う。
「いいじゃねえか!」
拳を振り抜く。
膨大な力が正面から激突する。
谷全体が白く染まった。
イエガンも動く。
大斧が大気を切り裂く。
数十メートル級の斬撃が飛ぶ。
ティナは死角へ回り込む。
異形の観察を続けながら短剣を構える。
ほんの僅かな違和感も見逃さない。
三人の連携は完璧だった。
今までの敵なら何度消し飛んでも足りない。
それほどの猛攻だった。
だが異形は消えない。
崩れない。
揺らぎもしない。
まるで世界そのものが相手を守っているようだった。
そして異形は初めて腕を振り下ろす。
その瞬間。
クロナの表情から笑みが消えた。
本能が理解した。
今までの攻撃とは次元が違う。
初めて。
本当に初めて。
クロナは防御を選択した。




