【第412話:歪む世界】
空に走った亀裂は消えなかった。
裂け目の向こう側には何も見えない。
光すら吸い込まれていた。
ティナは無意識に息を止めていた。
魔力反応を探ろうとしても掴めない。
あの亀裂そのものが異常だった。
「クロナ様…!」
イエガンが低く呼ぶ。
「これは本当に生き物なんですかね」
クロナは視線を亀裂へ向けたまま答える。
「知らねえ。でも面白くなってきた」
その声には恐怖がない。
むしろ高揚感が強くなっていた。
今までの敵とは根本から違う。
だからこそ興味が尽きない。
異形はゆっくりと腕を伸ばす。
その動作に合わせるように空間が軋んだ。
谷の地面へ無数の亀裂が走る。
ティナは即座に跳躍する。
イエガンも巨体を翻して距離を取った。
直後に地面の一部が崩壊する。
土煙が上がる。
しかし爆発音はない。
音そのものが遅れているようだった。
クロナは崩れた地面を見下ろす。
そこには深い穴が開いていた。
だが掘られた痕跡がない。
「変な感じだな」
クロナが呟く。
「壊されたっていうより、最初から無かったみたいだ」
ティナはその言葉に頷いた。
「存在の定義を書き換えられている感覚です」
アルドは後退していた。
異形の力を見せつけられ、研究者としての興奮と恐怖が混ざり始めている。
もはや制御できる存在ではないと理解していた。
「そんな……」
アルドの声は震えていた。
「私はただ、新しい可能性を……」
クロナは振り返らない。
アルドの後悔に興味はなかった。
今意識を向けるべきは目の前の敵だけだ。
異形が再び動く。
今度は一瞬だった。
姿がぶれる。
次の瞬間、クロナの目前に現れる。
クロナは反射的に拳を振るった。
だが空を切る。
異形の輪郭が揺らいでいた。
「ちっ」
クロナは舌打ちしながら距離を取る。
今の移動は速さでは説明できない。
認識の隙間へ滑り込まれたような感覚だった。
イエガンが横から突っ込む。
大斧が唸りを上げる。
今度は異形の胴体を真っ二つに狙った。
しかし刃が触れた瞬間、斧の軌道がずれた。
まるで空間そのものが歪められたように。
斧は地面を深く抉るだけに終わる。
「おいおい、冗談だろ」
イエガンの額に汗が浮かぶ。
ティナは短剣を握り直した。
直接攻撃は通じない。
なら別の方法を探すしかない。
「クロナ様。空間そのものへ干渉しています。普通の攻撃は成立しません」
「だろうな」
クロナは笑った。
その目はますます輝いている。
未知の法則を前にした興奮だった。
異形が口を開く。
声はない。
だが次の瞬間、谷全体の重力が変わった。
ティナの身体が横へ引かれる。
イエガンの巨体すら浮き上がりかけた。
クロナは地面へ拳を叩き込み、強引に身体を固定する。
「今度は重力か」
クロナは笑う。
「本当に何でもありだな」
ティナは必死に踏ん張る。
視界が揺れる。
空間感覚そのものが狂わされていた。
イエガンが歯を食いしばる。
「クロナ様。こいつ、本気で世界の法則を弄ってますよ」
「そうみてえだ」
クロナはゆっくり立ち上がる。
全身へ魔力を巡らせる。
周囲の精霊達が不安そうに揺れていた。
それでも逃げない。
主の意思を感じ取っているからだ。
異形は静かにこちらを見ている。
まるで観察しているようだった。
戦いを楽しんでいるのかもしれない。
クロナは拳を握る。
「ならこっちも好きにやらせてもらう」
次の瞬間、黒い魔力が爆発する。
雷が空を裂き、炎が渦を巻き、風が谷を吹き荒れた。
複数の精霊達が同時に力を解放する。
クロナは再び異形へ突っ込む。
今度は単純な打撃ではない。
精霊達の力を重ね合わせた連撃だった。
雷撃が走る。
炎の刃が空を裂く。
風圧が地形を削る。
だが異形は崩れない。
周囲の空間が波打ち、攻撃が逸らされていく。
まるで世界そのものが異形を守っているようだった。
「面倒くせえ!」
クロナが叫ぶ。
それでも笑っている。 ここまで理不尽な相手は初めてだった。
ティナはその横顔を見た。
クロナは本気で楽しんでいる。
絶望的な状況なのに、その瞳だけは輝いていた。
そして異形が初めて腕を大きく振るう。
世界が歪んだ。




