【第410話:高鳴る鼓動】
異形は動かない。
ただそこに立っているだけだった。
それなのに谷全体が支配されていた。
クロナは拳を下ろした。
先ほど放った全力の一撃は通じなかった。
それどころか傷一つ付けられていない。
普通なら警戒する場面だった。
未知の相手だ。
能力も正体も分からない。
だがクロナの口元は僅かに吊り上がっていた。
「クロナ様」
イエガンが声を掛ける。
「大丈夫ですか」
クロナは答えない。
視線は異形から離れない。
その瞳だけが静かに輝いていた。
ティナはその表情を見て気付く。
焦りではない。
恐怖でもない。
別の感情だった。
「……楽しそうですね」
ティナが小さく言う。
クロナは肩を竦めた。
「分かるか」
否定しなかった。
むしろ隠す気もなかった。
イエガンは呆れたように笑う。
長い付き合いだ。
だから分かる。
クロナはこういう顔をする。
本当に強い相手と出会った時だけ。
「まったく。普通は逆なんですがね」
イエガンは大斧を肩へ担ぐ。
「傷一つ付かねえ相手を見て喜ぶ奴は少ねえですよ」
クロナは小さく笑った。
「そうかもしれねえな」
視線は異形へ向いたままだった。
喰界王と戦った時もそうだった。
魔王と戦った時もそうだった。
強敵と出会う度に血が騒いだ。
だが今は少し違う。
強いだけではない。
分からない。
理解できない。
それがクロナの興味を強く刺激していた。
異形が僅かに首を傾ける。
相変わらず不気味だった。
存在そのものが世界から浮いている。
それでもクロナは目を逸らさない。
「初めてだな」
誰へ向けた言葉でもなかった。
「本当に何も分からねえ敵ってのは」
ティナも同意する。
観察している。
分析もしている。
それでも手掛かりが少なすぎる。
今までなら何らかの法則を見つけられた。
だが今回は違った。
「少し悔しいですね」
ティナは正直に言う。
「観察しているのに何も掴めません」
クロナは笑う。
「だから面白いんだろ」
ティナは返事をしなかった。
だが否定もしなかった。
確かに今まで経験したことのない状況だった。
異形はゆっくりと周囲を見回している。
その動きには目的が見えない。
まるで世界そのものを観察しているようだった。
アルドは黙っていた。
先ほどまでの自信は薄れている。
異形が制御下にないことへ気付き始めていた。
それでも目は離せない。
長年追い続けた研究の結晶だからだ。
クロナはそんなアルドを横目で見る。
「お前も知らねえんだな」
アルドの肩が僅かに震える。
「……」
沈黙が答えだった。
クロナは笑みを深める。
研究者本人ですら理解していない。
そんなものを生み出してしまった。
それはある意味で滑稽だった。
異形が再び視線を向ける。
今度はクロナだけを見ていた。
谷の空気が重くなる。
周囲の岩壁へ細かな亀裂が走る。
見られているだけなのに圧力があった。
イエガンが一歩前へ出る。
「クロナ様」
その声には警戒が滲んでいる。
「下がってくださいと言っても聞かねえでしょうが」
クロナは笑った。
「聞かねえな」
即答だった。
イエガンは大きく息を吐く。
予想通りだった。
だからそれ以上は言わない。
ティナも同じだった。
二人とも理解している。
今のクロナは止まらない。
異形は一歩前へ出る。
空間が軋む。
地面が沈む。
存在しているだけで周囲へ異常が発生していた。
それでもクロナは動かない。
むしろ前へ出た。
異形との距離が縮まる。
谷を吹き抜ける風が二人の間を通り過ぎる。
「いいな」
クロナが呟く。
誰へ向けた言葉でもない。
ただ自然に漏れた本音だった。
今まで数え切れない敵を喰らってきた。
力を奪った。
成長した。
気付けば多くの相手が敵ではなくなっていた。
だが目の前の存在は違う。
届かない。
理解できない。
だからこそ面白い。
胸の奥で鼓動が高鳴る。
戦いの前に感じる興奮だった。
異形はクロナを見ている。
クロナも異形を見ている。
二つの存在が向き合う。
どちらも動かない。
それなのに谷の空気だけが張り詰めていく。
そしてクロナは静かに笑った。
「ようやく見つけたかもしれねえな」
その瞳には恐怖がなかった。
あるのは純粋な好奇心だけだった。
自分の知らない力。
自分の届かない領域。
その全てが目の前にある。
だからクロナは拳を握る。
次の一撃を考えながら。
少年のような高揚感を隠しきれないまま。




