【第409話:届かぬ刃】
異形が口を開いたまま立っている。
声は出ていない。
それでも谷全体が震えていた。
空気が重い。
呼吸をするだけで肺の奥へ異物が入り込むような感覚がある。
存在しているだけで周囲へ影響を与えていた。
クロナ達は動かない。
先に飛び出したのはイエガンだった。
大地を砕きながら一直線に駆ける。
豪快な戦い方は変わらない。
だが油断は一切なかった。
全身の筋肉が限界まで練り上げられている。
「クロナ様。少し試してみます」
返事を待たずに跳躍する。
巨体とは思えない速度だった。
振り上げられた大斧が空気を裂く。
谷全体へ轟音が響いた。
今までの敵なら防御すら許されない一撃だった。
大斧は異形の肩へ直撃する。
確かな手応えがあった。
イエガンはそう感じた。
だが次の瞬間、違和感が生じる。
斧が埋まっていない。
切れていない。
傷すらない。
異形は立っている。
まるで何も起きていないかのようだった。
目らしき器官だけがゆっくり動く。
イエガンの表情が険しくなる。
防がれたわけではない。
硬いわけでもない。
当たった結果が存在しなかった。
「おいおい……」
思わず呟く。
今まで経験したことのない感覚だった。
攻撃した事実だけが残っている。
異形はようやくイエガンを見る。
その瞬間、イエガンは反射的に飛び退いた。
理由は説明できない。
本能がそう命じた。
直後に地面が消える。
爆発ではない。
抉られたわけでもない。
そこだけが無くなっていた。
イエガンの目が見開かれる。
もし回避が遅れていれば、自分も同じ運命だった。
そんな確信があった。
今度はティナが動く。
銀髪が風を切る。
地面を蹴った姿が視界から消える。
正面ではない。
側面でもない。
死角を縫うように接近していた。
短剣が閃く。
人間なら認識すらできない速度だった。
首筋へ向けて正確に突き込まれる。
だが届かない。
刃先が触れた瞬間、異形の輪郭が揺らいだ。
水面へ石を投げ込んだような波紋が広がる。
それだけだった。
短剣は貫通している。
しかし命中していない。
矛盾した現象だった。
ティナは即座に距離を取る。
追撃はしない。
意味がないと判断した。
「どうだった」
クロナが問う。
「分かりません」
ティナは短く答える。
「当たっています。でも当たっていません」
イエガンが苦笑した。
意味不明な報告だった。
しかし実際に見た光景も意味不明だった。
異形は何もしていない。
攻撃もしていない。
それでも三人の警戒は強まっていく。
クロナはゆっくり前へ出る。
今度は自分の番だった。
相手の正体が分からない以上、試せるものは全て試す。
黒い魔力が全身を覆う。
大気が震える。
谷の岩壁へ亀裂が走った。
アルドの目が見開かれる。
今さらながらクロナの規格外さを思い出していた。
王国を築いた怪物であることを。
クロナは拳を握る。
喰らってきた力が解放される。
魔物の力。
精霊の力。
王として積み重ねた力。
その全てが一つへ収束していく。
「行くぞ」
短い言葉と共に姿が消えた。
衝撃波が谷を駆け抜ける。
音が遅れて追い掛けてくる。
その速度は今までの戦いでも上位に入るものだった。
拳が異形へ叩き込まれる。
山を砕く威力だった。
城壁程度なら跡形もなく吹き飛ぶ。
実際、周囲の岩盤は余波だけで崩壊していた。
しかし異形は立っている。
微動だにしていない。
クロナの目が細められる。
拳の感触が存在しない。
硬さも柔らかさもない。
何もない場所を殴ったような感覚だった。
クロナは攻撃を止めない。
雷が奔る。
炎が渦巻く。
風が裂ける。
影が伸びる。
今まで得た力が次々と解き放たれる。
谷全体が戦場になった。
異形の周囲だけが光に包まれる。
凄まじい破壊だった。
普通の敵なら存在ごと消し飛んでいる。
それでも異形は立っていた。
傷がない。
再生しているわけでもない。
最初から傷付いていない。
クロナは攻撃を止める。
初めて沈黙が落ちた。
ティナもイエガンも言葉を失う。
アルドでさえ息を呑んでいた。
研究者である彼ですら予想外だったのだろう。
異形がゆっくりと顔を向ける。
目の位置が変わる。
口が歪む。
そして初めて反応を示した。
それは敵意ではなかった。
興味だった。
クロナを観察するように見ている。
まるで初めて価値のある対象を見つけたかのようだった。
ティナの背筋に冷たいものが走る。
今まで相手は何もしていなかった。
本当に何もしていなかったのだ。
それでも三人の攻撃は通じなかった。
つまりここまでは戦闘ですらない。
異形はようやくクロナという存在を認識した。
そしてその瞬間、谷全体の空気がさらに重くなっていく。
まるで本当の戦いが今から始まると言わんばかりに。




