【第408話:理解の外側】
異形が踏み出した一歩は遅かった。
本当に遅かった。
誰の目にもそう見えた。
だが次の瞬間、その姿は先ほどより数十メートル近付いていた。
移動した過程だけが抜け落ちている。
結果だけが現実として存在していた。
ティナは目を細める。
視線は一瞬たりとも逸らしていない。
それでも何が起きたのか説明できなかった。
「クロナ様。見えましたか」
クロナは異形を見つめたまま答える。
「いや。見ていたはずなんだがな」
イエガンも大斧を握り直す。
彼もまた異変を理解できていなかった。
気配を消したわけではない。
速度で上回ったわけでもない。
空間転移の類とも違う。
理屈そのものが噛み合わなかった。
アルドだけが満足そうに笑っている。
自分の研究成果へ酔っているようだった。
その様子をティナは冷静に観察する。
「あなたも理解しているわけではないんですね」
アルドの笑みが少しだけ固まる。
その反応だけで十分だった。
図星らしい。
「理解など必要ない」
アルドは言い返す。
「結果こそが全てだ」
ティナは首を横へ振った。
その考え方は研究者として危うい。
理解できない力はいずれ制御できなくなる。
異形は再び立ち止まる。
歪な身体がゆっくり揺れていた。
顔らしき部分の目が次々と位置を変える。
その度に空気が震える。
谷全体が嫌な軋みを上げていた。
まるで世界そのものが拒絶しているようだった。
クロナは小さく息を吐く。
今までにも強敵はいた。
様々な王と戦ってきた。
規格外の怪物も数え切れないほどいた。
だが目の前の存在は少し違う。
強さだけなら比較できる。
しかし存在そのものが異質だった。
初めて遭遇する種類の敵だった。
異形が首を傾ける。
その瞬間、谷の岩壁が崩れ始めた。
攻撃の予兆は何もない。
魔力の放出もない。
ただ崩れた。
原因が存在しないように見えた。
巨大な岩塊が落下する。
クロナは反射的に拳を振るった。
岩塊は粉砕される。
だが異形は見ていなかった。
興味すら示していない。
まるで別の何かを探しているようだった。
「クロナ様」
イエガンが低く呼ぶ。
「妙です」
「ああ」
クロナも頷く。
「俺達を敵として認識している感じがしねえな」
その言葉にティナも同意する。
敵意は感じる。
危険性も感じる。
しかし標的として見られている感覚がない。
獣が獲物を見る視線とは違った。
もっと根本的に価値観が異なる。
異形はゆっくりと周囲を見回す。
目が増える。
次の瞬間には消える。
口が裂ける。
だが声は出ない。
存在の在り方そのものが不安定だった。
アルドは一歩前へ出た。
研究者としての興奮を隠せない。
自分が生み出した成果を誇っている。
「素晴らしいだろう」
誰も返事をしない。
「これこそ次の時代だ」
アルドは両腕を広げる。
「人でもない。魔物でもない。精霊でもない。全てを超える生命体だ」
その瞬間だった。
異形がアルドを見た。
初めて明確に視線が向けられた。
アルドの笑顔が固まる。
異形は一歩も動かない。
ただ見ている。
それだけだった。
しかしアルドの身体から血の気が引いていく。
本能が理解したのだろう。
自分は制御者ではない。
目の前の存在にとって、自分もまた対象の一つに過ぎないと。
ティナはその変化を見逃さなかった。
アルドの額には汗が浮かんでいる。
先ほどまでの余裕が消え始めていた。
「まさか……」
アルドが小さく呟く。
異形は何も答えない。
当然だった。
会話が成立する保証すらない。
次の瞬間、異形の周囲の空間が歪む。
空気がねじれる。
地面が軋む。
クロナの表情が変わった。
初めてだった。
この存在を放置してはいけない。
そう本能が断言したのは。
今までは観察していた。
情報を集めていた。
だがこれ以上は危険だ。
ティナも同じ結論へ辿り着いていた。
「クロナ様」
「ああ」
短いやり取りだった。
それだけで十分だった。
イエガンも大斧を構える。
先ほどまでの様子見は終わりだ。
三人の空気が静かに変わる。
アルドはその変化を感じ取る。
だがもう遅かった。
状況は彼の手を離れている。
異形の周囲で赤黒い光が揺らめく。
谷全体へ重圧が広がっていく。
空が曇り始めていた。
そして異形はゆっくりと口を開く。
声は出ない。
それでも世界が震えた。
谷を覆う空気そのものが悲鳴を上げる。
クロナは拳を握る。
ティナは短剣へ手を添える。
イエガンは大斧を肩へ担ぐ。
ここから先は観察ではない。
初めて三人は、この存在を本当の敵として認識したのだった。




