【第407話:異形の胎動】
施設の入口が吹き飛んだ瞬間、谷全体を覆っていた空気が変質した。
それは単純な魔力の増大ではなかった。
その場にいる者の本能へ直接触れてくるような異質さだった。
舞い上がった瓦礫が落下する。
だが地面へ届く前に砕け散った。
何かに触れたわけでもない。
ただ崩れた。
まるで存在そのものが保てなくなったかのようだった。
谷には不気味な静寂が広がる。
クロナの表情から僅かに笑みが消える。
初めて見る現象だった。
少なくとも知っている魔物や精霊の力とは違う。
ティナも言葉を失っていた。
施設跡から溢れる魔力の流れを追おうとしている。
しかし追えない。
流れているように見えて流れていない。
拡散しているように見えて一点へ集まっている。
観察するほど矛盾が増えていく。
イエガンは大斧を構え直した。
経験豊富な彼ですら眉間へ深い皺を刻んでいる。
本能が危険を告げていた。
瓦礫の向こうから影が現れる。
最初に見えたのは腕だった。
異様に長い。
人型にも見える。
だが人ではない。
その時点で誰の目にも明らかだった。
続いて胴体が姿を現す。
黒とも赤ともつかない外殻に覆われている。
表面は固体のようでありながら液体のようにも揺れていた。
そして最後に顔が現れる。
いや、顔と呼べるものではなかった。
目がある。
口もある。
だが位置が一定ではない。
見た瞬間は額にあった目が次の瞬間には頬へ移動している。
口もまた形を変え続けていた。
理解できない。
それが最も正確な感想だった。
「……何だあれ」
イエガンが低く呟く。
その声には警戒が滲んでいた。
誰も答えられない。
ティナは視線を逸らしかける。
本能が見てはいけないものだと告げていた。
それでも観察を続ける。
だが分からない。
種族も分からない。
構造も分からない。
存在そのものが理解の外側にあった。
観察しているはずなのに情報が頭へ入ってこない。
そんな感覚すらあった。
アルドだけが笑っていた。
その視線は異形へ向けられている。
研究者としての歓喜が隠されていなかった。
「美しいだろう」
クロナは視線を向ける。
アルドの目は本気だった。
狂気ではなく確信だった。
「完成したのか」
クロナが問う。
アルドは首を横へ振る。
その表情には熱が宿っていた。
「違う。完成ではない。進化だ」
異形が一歩前へ出る。
その動作は緩慢だった。
だが周囲の空気が軋んだ。
次の瞬間だった。
巨人の胸部が突然砕け散る。
誰も攻撃していない。
それでも内部から爆発したように崩壊した。
アルドの切り札だった巨人が膝をつく。
イエガンの目が見開かれる。
「おい……」
巨人は抵抗しない。
いや、抵抗できないように見えた。
異形の存在を前にして震えている。
魔物でもない。
兵器でもない。
それなのに恐怖しているようだった。
クロナはその光景を見つめる。
巨人は高い再生能力を持つ。
今までの敵なら十分に脅威だった。
だが今は違う。
目の前の存在と並ぶと格がまるで異なって見えた。
異形はゆっくりと巨人へ手を伸ばす。
触れた。
それだけだった。
巨人の腕が消えた。
切断ではない。
破壊でもない。
そこに存在していた事実ごと失われたように見えた。
地面へ落ちる破片すら存在しない。
ただ無くなった。
谷が静まり返る。
アルドの笑みすら固まった。
彼も予想していなかったのだろう。
異形は巨人を見ていない。
クロナ達も見ていない。
視線らしきものは空間そのものを眺めているようだった。
ティナは息を飲む。
ようやく分かった。
この存在は生物ではない。
少なくとも知っている生物の延長線上には存在しない。
「クロナ様」
ティナの声は珍しく硬かった。
視線は異形から離れない。
その額には僅かな汗が浮かんでいる。
「分かりません」
それが全てだった。
観察しても理解できない。
推測するための材料すら存在しない。
今までの敵なら何らかの法則があった。
どれだけ強大でも仕組みは存在した。
だが目の前の存在にはそれがない。
理解の入口そのものが見当たらなかった。
クロナは異形を見つめる。
焦りはない。
しかし油断も消えていた。
未知だからではない。
本能が警告している。
この存在は今までの敵と同じ尺度で測ってはいけない。
異形が再び動く。
ゆっくりと顔らしき部分がこちらを向いた。
その瞬間、谷全体の魔力が揺らぐ。
クロナの周囲に漂っていた精霊達が一斉に距離を取った。
それは初めて見る反応だった。
精霊達が恐れている。
ティナもその光景を見ていた。
背筋へ冷たいものが走る。
精霊ですら本能的に避ける存在。
そんなものが、この世界にいるのか。
異形の口が開く。
音は出ない。
だが次の瞬間、谷の岩壁が一斉に崩れ始めた。
誰も攻撃を受けていない。
それでも世界の方が悲鳴を上げているようだった。
クロナは静かに拳を握る。
初めてだった。
相手の力を測る前に、まず何者なのかを知る必要がある敵は。
そして異形はゆっくりと一歩を踏み出す。
そのたった一歩だけで、谷の空気は完全に別物へ変わっていた。




