【第399話:谷底に潜む影】
谷の奥へ続く岩場の上で、クロナたちは足を止めていた。
眼下には深い谷が広がり、その底には人工的に切り開かれた空間が見えている。
木々に隠れるように建てられた施設は、一見すると廃鉱山にも見えた。
だが近くを歩く人影や見張りの動きが、その場所が今も使われている拠点であることを示していた。
冷たい風が谷を吹き抜ける。
岩陰に身を潜めた三人は、慎重に様子を観察していた。
「思ったより大きいな」
クロナは小さく呟いた。
前回潰した拠点とは規模が違う。
建物は複数存在している。
周囲には柵まで設けられていた。
「少なくとも急ごしらえではありませんね」
ティナも視線を向けたまま答える。
「長期間運用されていた可能性があります」
イエガンは岩へ肘を置きながら鼻を鳴らした。
「隠れる気があるのかないのか分からねえ場所だな」
「人が近づかない場所だからこそ成立する隠れ家なんだろう」
クロナの言葉にティナも頷いた。
確かに普通の旅人ならここまで来ない。
谷へ降りるだけでも相当な手間がかかる。
さらに周囲には獣道しか存在しない。
偶然見つかるような場所ではなかった。
「見張りは八人」
ティナが静かに言う。
「建物の裏にも数人います。交代の動きから考えると最低でも二十人以上はいるでしょう」
「前の拠点より多いな」
「はい」
ティナは短く答えた。
だがその視線は見張りではなく建物の中央へ向いていた。
最も大きな建造物である。
石と木材で作られた頑丈な建物だった。
入口には武装した男たちが配置されている。
「気になるのか」
クロナが尋ねた。
「ええ」
ティナは目を細めた。
「警備が偏っています。何か重要なものがあるはずです」
イエガンもその方向を見た。
「捕まえた連中が言ってた研究施設ってやつか」
「可能性はあります」
前回の拠点では実験資料が見つかっていた。
さらわれた村人たちを使い、何らかの研究が行われていた形跡もあった。
もし本拠地に近い施設なら、さらに重要な情報が眠っているかもしれない。
「突っ込みますか」
イエガンが獰猛な笑みを浮かべる。
「私が正面から暴れれば全員出てくるでしょう」
「却下だ」
クロナは即答した。
「だと思いました」
ティナが小さく息を吐く。
「情報を回収する前に壊したら意味がありません」
「分かってるが、たまには派手にやりてえんだよ」
イエガンは肩を竦めた。
その様子にクロナは苦笑する。
豪快な性格は相変わらずだった。
その時だった。
谷底の施設側で動きが起きる。
数人の男たちが建物から出てきた。
その後ろには鉄格子付きの荷車が続いている。
クロナの表情が変わった。
「おい」
イエガンも眉をひそめる。
荷車の中には人がいた。
老人。
若者。
女性。
十人近い人間が閉じ込められている。
誰もが疲弊しきっていた。
服も汚れている。
「まだ続いていたんですね」
ティナの声が僅かに低くなった。
以前の拠点を潰して終わりではなかった。
組織は今も人を集め続けている。
クロナは荷車を見下ろしたまま口を開く。
「予定変更だ」
ティナとイエガンが視線を向ける。
「まずはあいつらを助ける」
「賛成です」
ティナは迷わず答えた。
「私も異論ありません」
イエガンの目には闘志が宿っていた。
だがクロナはすぐには動かなかった。
周囲の状況を確認する。
警備の配置。
巡回の間隔。
施設の構造。
全てを頭の中へ叩き込む。
「夜まで待つ」
静かにそう告げた。
昼間の強行突破は危険が大きい。
人質がいる以上、慎重に動く必要があった。
谷の上空では雲がゆっくり流れていた。
太陽はまだ高い位置にある。
夜までには数時間ある。
その時間を使い、三人はさらに偵察を続けることにした。
だが誰も知らなかった。
谷底の最奥部にある巨大な建物の地下で、
彼らが想像していた以上の実験が既に進められていることを。
そして、その施設には前回の仮面の男すら従う立場でしかない、
組織の中枢に近い人物が滞在していることを。




