【第377話:壊れる境界】
暴走した男が砦の床を踏み砕きながら迫る。
異形化した腕が唸りを上げて振り抜かれた。
ティナは正面から退かない。
踏み込みの軌道へ身体を滑り込ませる。
轟音が響いた。
拳が背後の石柱を粉砕する。
砕石が宙を舞う。
視界が白く煙った。
その中で、ティナの掌が男の肘へ触れる。
力の流れを崩すように角度をずらした。
巨体がわずかによろめく。
そこへ追撃を重ねる。
足払い。
重心が完全に崩れる。
男の身体が横倒しに叩きつけられた。
石床が大きく陥没する。
だが止まらない。
男は咆哮しながら無理やり起き上がる。
黒い血管が全身へ広がっていた。
変異の進行が加速している。
ティナは小さく眉を寄せる。
予想以上に侵食が深い。
男の視線が揺れる。
理性と暴走がせめぎ合っていた。
「……ぁ、あ……っ」
苦しげな呼吸が漏れる。
もはや言葉になっていない。
白衣の女が一歩前へ出た。
顔色は青ざめている。
「駄目よ。これ以上動いたら、本当に戻れなくなる」
震えた声だった。
先ほどまでの余裕は消えている。
男はその声へ反応する。
濁った瞳がゆっくり向いた。
異形化した腕が震える。
握り締めた拳から黒い液体が滴り落ちた。
「……せ、んせ……」
掠れた声だった。
その呼び方に、女の表情が止まる。
ティナは視線を動かす。
二人の間にあった関係を察する。
ただの被験体ではない。
少なくとも、この女にとっては違った。
白衣の女は唇を噛む。
細い肩が小さく震えていた。
「……あなたは適応しかけていたの。今までで一番安定していた。だから私は……」
言葉が途中で止まる。
後悔と執着が混ざった声音だった。
男は苦しげに頭を押さえる。
黒い脈動がさらに膨れ上がる。
次の瞬間。
男の右腕が暴走する。
膨張した腕が一気に肥大化した。
骨が軋み、形状が変質していく。
もはや人の腕ではない。
巨大な黒い塊へ近づいていた。
ティナは即座に前へ出る。
暴走の方向を読む。
だが男はティナではなく、自分の腕を掴んだ。
苦しげに歯を食いしばる。
「……こ、われ……る……っ」
叫びに近かった。
理性が完全に消える寸前だった。
白衣の女が目を見開く。
その言葉が決定打になった。
彼女は握っていた薬瓶を見る。
数秒だけ迷う。
やがて小さく息を吐いた。
諦めにも似た呼吸だった。
そして薬瓶を床へ落とす。
ガラスが砕け散る。
ティナはわずかに目を細めた。
女の覚悟を察する。
白衣の女は男を見る。
震えを押し殺すように。
「……ごめんなさい。あなたたちを使えば、先へ進めると思っていた。でも違ったわね」
静かな声だった。
ようやく研究者ではなく、一人の人間の声になっていた。
男の身体が限界まで膨張する。
黒い脈動が砦全体へ響く。
ティナは一気に踏み込んだ。
迷いはない。
掌底が男の胸部へ叩き込まれる。
衝撃が空気を揺らした。
男の身体が大きく仰け反る。
その瞬間、ティナのもう一撃が首元へ入る。
力の流れを断ち切るような正確な一撃だった。
黒い脈動が乱れる。
男の巨体が崩れ落ちた。
床へ膝をつく。
暴走しかけていた腕が痙攣する。
膨張がゆっくり止まり始める。
静寂が落ちた。
荒い呼吸音だけが残る。
男は薄く目を開く。
その視線が白衣の女へ向いた。
「……せん、せい……」
かすかな声だった。
次の瞬間、意識が落ちる。
巨体が完全に沈黙した。
黒い脈動も徐々に消えていく。
白衣の女は動かなかった。
ただ静かに、その姿を見つめていた。




