【第376話:崩れた被験体】
砦全体に低い咆哮が響き渡った。
空気そのものが震えるような重い音だった。
拘束具の破片が床へ散らばる。
鉄片が石床を激しく跳ねた。
変異した男はゆっくりと身体を起こす。
その動きは人間のものとは思えなかった。
膨れ上がった右腕がさらに脈動する。
黒い筋が首元まで浮かび上がっていた。
左目はすでに白濁している。
だが残った右目には、かすかに理性が残っていた。
男は荒い息を漏らす。
苦痛に耐えるように歯を食いしばっていた。
「……が、ぁ……っ」
掠れた声が漏れる。
喉が潰れかけている。
ティナは距離を測る。
同時に背後の村人たちも視界へ入れる。
暴走した場合、被害が広がる。
まず守るべき位置を確認していた。
白衣の女が薬瓶を握る。
その指先には焦りが滲んでいた。
「抑制剤が間に合えば、まだ戻せる可能性が――」
言い終わる前だった。
変異した男が床を踏み砕く。
巨体が一瞬で距離を詰める。
白衣の女へ一直線に迫った。
ティナが即座に割り込む。
掌で男の腕を逸らす。
轟音が響いた。
振り抜かれた拳が石壁を砕く。
砕石が飛び散る。
壁に深い亀裂が走った。
白衣の女が息を呑む。
初めて明確な恐怖が顔に浮かぶ。
ティナは後退しない。
男の動きを観察する。
速い。
だが完全に制御を失っている。
理性と暴走が混ざり合っていた。
だからこそ動きに乱れがある。
男が再び咆哮する。
黒い血管が膨れ上がった。
次の瞬間、右腕が異形化する。
骨が軋み、形そのものが変わっていく。
指先が刃物のように伸びる。
人間の腕ではなかった。
白衣の女が震える声を漏らす。
「……そんな。進行が早すぎる」
呆然と呟く。
想定を超えている様子だった。
ティナは男の視線を見る。
完全に獣化しているわけではない。
視線が揺れている。
まだ苦しんでいた。
男は自分の腕を見る。
震える呼吸のまま唸る。
「……たす、け……ろ……」
搾り出すような声だった。
その瞬間だった。
黒い脈動が一気に強まる。
男の表情が苦痛に歪む。
ティナは即座に踏み込む。
床を蹴り、一気に懐へ入る。
男の振り上げた腕を受け流す。
そのまま重心を崩した。
巨体が揺れる。
だが完全には止まらない。
力任せに腕が振り抜かれる。
空気が裂けるような音が響いた。
ティナは紙一重で回避する。
切断された石柱が後方へ崩れ落ちた。
普通の人間ではない。
肉体そのものが変質している。
白衣の女が苦しげに目を伏せる。
唇を強く噛み締めていた。
「……違ったのよ。本当はこうなるはずじゃなかった。適応できれば、人はもっと先へ進めると思っていたのに」
声が揺れる。
先ほどまでの冷静さは崩れ始めていた。
ティナは返答しない。
視線は暴走した男へ向いている。
男の呼吸がさらに乱れる。
身体の各所が軋み始めていた。
限界が近い。
このままでは完全に壊れる。
ティナは静かに構えを落とす。
わずかに呼吸を整える。
そして次の瞬間。
男が再び突進した。
砦の床を砕きながら、真正面から迫ってくる。
その暴走を、ティナは正面から迎え撃った。




