【第375話:研究者の執念】
白衣の女は静かにティナを見つめていた。
怯えよりも観察の色が強い視線だった。
細い指先が机の端を軽く叩く。
癖のような動きだった。
ティナは距離を詰めない。
周囲の構造を確認し続ける。
実験槽は全部で六基。
そのうち三つには液体が満たされている。
残る三つは空だった。
だが最近まで使用されていた痕跡がある。
白衣の女が小さく息を吐く。
どこか呆れたような声音だった。
「責任者、ね。間違ってはいないわ。実際、ここを動かしていたのは私だもの」
落ち着いた声が響く。
逃げる気配は見えない。
ティナは視線を逸らさない。
女の立ち方を観察する。
戦士ではない。
だが完全な非戦闘員とも違う。
無防備に見えて、隙が少ない。
何かを隠している空気があった。
「……何のための実験ですか」
短く問う。
核心だけを投げる。
女はわずかに笑った。
冷たい笑みではなかった。
どちらかと言えば、疲れた研究者の笑みに近い。
「生存率の確認よ。人間がどこまで“変化”に耐えられるかを調べていたの」
静かな口調だった。
説明すること自体には抵抗がないらしい。
ティナは周囲を見る。
鎖に繋がれた男へ視線を向ける。
黒く脈打つ腕。
正常とは程遠い変質。
女はその視線に気づく。
小さく肩を竦めた。
「失敗例ではあるけれど、前よりは安定しているわ。最初はもっと酷かった。身体が内側から裂けた人もいたもの」
淡々と告げる。
その内容だけが異常だった。
ティナの目がわずかに細まる。
空気が静かに冷える。
「……それを村人に行っていたのですね」
声は低かった。
感情を抑えた響きだった。
女は即答しない。
数秒だけ沈黙する。
やがて机に置かれた記録紙へ触れる。
そこには細かな数値が並んでいた。
「仕方なかったのよ。適性は実際に試さないと分からない。兵士だけでは数が足りなかったし、偏りも出る。だから広く集める必要があった」
理屈として説明する。
そこに罪悪感は薄い。
ティナはゆっくりと息を吐く。
視線は冷えたままだった。
「……多くが死んだとしても、ですか」
短い問いだった。
女は目を伏せる。
その横顔には、わずかな疲弊があった。
「全員を救える方法なんて、最初から存在しないわ。だったら少数でも残せる道を探すしかないでしょう」
静かな返答だった。
狂気だけでは片付けられない声音だった。
ティナはその言葉を聞く。
だが納得はしない。
視線が実験槽へ向く。
濁った液体が不気味に揺れていた。
その時だった。
背後で低いうめき声が響く。
鎖に繋がれた男の身体が震えている。
黒い脈動が急激に強まっていた。
血管が浮き上がる。
呼吸も乱れていく。
白衣の女の表情が変わった。
初めて焦りが混じる。
「……まずいわね。刺激が強すぎたかしら」
小さく呟く。
すぐに机の薬瓶へ手を伸ばす。
だが、その瞬間。
鎖が音を立てて軋んだ。
男の膨れ上がった腕がさらに肥大化する。
皮膚の下で黒い何かが蠢いていた。
ティナは即座に前へ出る。
空気が一気に張り詰める。
鎖が限界まで引き延ばされる。
次の瞬間、金属音が響いた。
拘束具が砕け散る。
男が咆哮を上げた。
もはや人間の声ではなかった。
砦全体が震えるほどの低い咆哮だった。




