【第374話:歪みの培養槽】
半面仮面の男が一直線に踏み込んできた。
剣筋は荒いが、速度だけは速い。
ティナは正面から受けない。
半歩ずれて軌道を外す。
刃が空を切る。
同時にティナの掌が男の手首へ触れる。
力の流れを逸らす。
重心が崩れる。
半面仮面の男が舌打ちした。
予想より軽くいなされたことに苛立っている。
「……っ、聞いていた以上だな。なるほど、あいつらが止められなかったわけだ」
低い声が漏れる。
先ほどより感情が表に出ていた。
ティナは返答しない。
視線はすでに砦の奥へ向いている。
先ほど聞こえた異音。
あれがずっと引っかかっていた。
再び、軋む音が響く。
今度はより近い。
鉄が擦れるような音。
そこに低いうめき声が混じる。
ティナの目が細まる。
異常の正体が近い。
その瞬間、指揮官の男が剣を抜いた。
静かな金属音が森に響く。
「こちらは引き受ける。君は中へ行け。あの音は放置しない方がいい」
落ち着いた声だった。
状況を見て即座に役割を決めている。
ティナは短く頷いた。
「……お願いします。すぐ戻ります」
言葉を残し、砦へ踏み込む。
入口を一気に抜ける。
内部は薄暗かった。
石壁には無数の傷跡が残っている。
古い砦特有の湿気。
だがそれだけではない。
鼻を刺す薬品臭が濃くなっていた。
空気そのものが淀んでいる。
床には黒ずんだ染みが広がっていた。
乾いたものと、新しいものが混ざっている。
ティナは歩みを止めない。
気配を探りながら奥へ進む。
通路の先で、再び異音が鳴った。
鎖を引きずるような音だった。
角を曲がる。
その先で視界が開ける。
広い空間だった。
元は訓練場か倉庫だったのだろう。
だが今は別物になっている。
中央には巨大なガラス槽が並んでいた。
緑がかった液体が内部で揺れている。
管のようなものが複雑に繋がっていた。
その周囲には寝台。
拘束具付きの鉄製台座まで並んでいる。
そして壁際には、人影があった。
数人の村人たちだった。
痩せ細っている。
顔色も悪い。
だが生きている。
かすかに呼吸していた。
ティナの視線が中央へ向く。
そこに“音の正体”がいた。
鎖に繋がれた男だった。
いや、元は人間だったものと言うべきだった。
片腕が異様に膨れ上がっている。
皮膚の下で黒い脈動が走っていた。
血管が浮き出ている。
呼吸も不規則だった。
髪は半ば白化し、瞳は濁っている。
だが完全には壊れていない。
男はティナを見た。
焦点の合わない目がゆっくり向く。
「……た、すけ……」
掠れた声だった。
喉が潰れているような音だった。
ティナは一瞬だけ目を細める。
室内全体を見渡す。
机には大量の記録紙。
薬品瓶。
魔法陣の刻まれた器具。
実験施設そのものだった。
そして、奥から足音が響く。
ゆっくりとした歩調。
暗がりの中から、一人の女が現れる。
白衣のような長衣をまとった女だった。
年齢は三十前後。
灰色の長髪を後ろで束ねている。
細い眼鏡の奥の瞳は冷静だった。
だが、その奥には異常な執着が宿っている。
女はティナを見る。
驚きよりも観察に近い視線だった。
「……へえ。ここまで来るとは思わなかった。外の連中、全員やられたのね」
落ち着いた声が響く。
怯えはほとんど感じられない。
ティナは静かに向き合う。
距離を測るように視線を動かす。
「……あなたが、この実験を行っていた責任者ですか」
短く問う。
空気が静かに張り詰めた。




