【第19話:追跡者】
木々の合間から射し込む朝日が、薄靄の中でゆらめく。
クロとミナは、ようやく人の気配の届かない場所まで逃げ延びていた。
クロは肩で息をしながら、振り返る。
さっきの“何か”――あの静かな殺気を放つ人物が、まだ近くにいる気がしてならなかった。
「……はぁ、はぁ。追ってきてるのか……?」
「ううん。もう、いない」
ミナがぽつりとつぶやいた。
クロは訝しむようにミナを見やる。
「どうして分かる」
「気配が消えた。まるで……霧みたいに」
「……やっぱりお前、普通の人間じゃねえな」
ぽつりと口からこぼれた言葉に、ミナは小さく笑った。
だがそれ以上は何も言わない。ただ、少しだけ目を細めると、クロに向かって言った。
「でも、私だけじゃないでしょ?」
「……は?」
「クロだって、普通のゴブリンじゃない。分かってるんでしょ、自分が何か“違う”って」
クロは言葉を失った。
スキルを吸収できること、異様に鋭い感覚。
仲間たちと違い、心があり、迷いがあり、恐れもある。
確かに、何かが違う。ずっと、どこかで感じていた。
「……俺は、ゴブリンだ。でも、それだけじゃねぇ」
ようやく、そう答えると、ミナは静かにうなずいた。
「それでいいよ。大事なのは、“今どうありたいか”じゃない?」
クロはその言葉を反芻する。
“どうありたいか”。そんなこと、考えたこともなかった。
ゴブリンとして生まれ、戦って、生き延びて、ただそれだけだった。
だが今は――違う。
自分の意志で、選びたい。進みたい。
そのとき――風が鳴った。
瞬間、クロはミナを抱えるようにして地面に伏せた。
――ギィン!
頭上を裂くように、細い金属の刃が通過した。
振り返る。木の上に、あの外套の人物が立っていた。
「やはり、“違う”な。お前」
落ち着いた声だった。感情が削ぎ落とされたような、冷たく乾いた声。
外套の下から覗くその瞳は、人間のものとは思えぬほど澄んでいた。
「なに者だ……!」
クロの問いかけに、外套の者はわずかに口角を上げた。
「俺の名はリゼル。討伐対象――お前だ」
そう言って、再び風を裂く音が鳴る。
クロはスキルを展開し、ミナを抱いてその場を跳んだ。
(……こいつ、本気で俺を殺しに来てる)
(なんでだ。俺はただ、逃げてただけなのに)
地面に着地した瞬間、クロは息を詰めた。
リゼルの動きが、一瞬で視界から消えた。
「後ろだ!」
ミナの叫びと同時に、クロは振り返る。
咄嗟に腕を振り抜き、リゼルの刃を弾いた。
だが、その衝撃で腕に鈍い痛みが走る。
(強い……っ!)
動きは人間の範疇を越えていた。
ゴブリンとして得た力を使っても、まともに戦えば勝ち目はない。
クロは再び跳躍し、距離を取った。
「ミナ、逃げるぞ!」
ミナは迷いなくうなずいた。
クロはスキルを最大限に引き出し、森の奥へと走る。
だがリゼルは、すぐに追ってくる様子を見せなかった。
ただ、木の上からこちらを見下ろしていた。
「逃げろ。そして知れ。お前が“何者”なのかを」
その言葉だけを残し、リゼルの姿は、霧の中に溶けるように消えていった。
クロは息を吐きながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……何者、だって……?」
ミナはそっとクロの腕を握った。
「行こう。きっと、答えはもっと奥にあるよ」
クロは頷いた。
霧が晴れていく。森の奥、まだ見ぬ世界へ――彼は、一歩を踏み出した。




