【第20話:はじまりの谷】
森を抜けた先に広がっていたのは、まるで時が止まったかのような静けさを湛えた谷だった。
斜面には苔が柔らかく生え、霧がうっすらと漂う。
陽の光は差し込んでいるはずなのに、どこか薄暗く、静謐な空気に包まれている。
「……ここ、なんなんだよ」
クロが辺りを見回しながらぽつりと呟いた。
ミナは一歩先を歩き、振り返る。
「“はじまりの谷”。そう呼ばれてる。私のおばあちゃんが、そう教えてくれたの」
「はじまり……?」
「ここはね、いろんな命が眠ってる場所。
どこから来たのか、どうやって生まれたのか……誰も知らないけど、ここには“始まり”の気配があるって」
ミナの目が、どこか遠くを見つめるように細められる。
クロは言葉をなくし、目の前に広がる景色を見つめた。
谷の中心には、朽ちた大木が一本、根を張っている。
大木の幹には、古い彫刻のような紋様が刻まれていた。まるで、何かの記憶が刻まれているかのように。
「なんか……落ち着くな」
「そうでしょ。私も、怖い時とか、ここに来る」
クロはゆっくりと足を踏み入れ、大木の前に立った。
すると――。
(……なんだ、これ)
胸の奥で、何かが疼く。
遠い記憶。いや、記憶ですらない何かが、脳裏にじわりと広がっていく。
断片的な光景。
灰色の空、誰かの叫び、赤く染まった手、そして――“人間の姿をした自分”。
「……!」
「クロ……? どうしたの?」
ミナが不安げに覗き込む。
クロは額に汗をにじませながら、首を振った。
「……いや、なんでもねぇ。ただ……少しだけ、思い出しただけだ」
「思い出した……?」
「ああ。転生する前……実は俺は、人間だったんだ。」
それを聞いたミナは驚くでも笑うでもなく、ただ静かに頷いた。
「うん、そう思ってた」
「……お前、なんでも知ってるみたいな顔するなよ」
「そうかな?」
ミナはいたずらっぽく笑った。
その笑顔に、クロはほんの少し救われた気がした。
自分はゴブリンとして生まれ変わった。
でも、過去の何かが残っていて、今、それが少しずつ自分を形づくっている。
この谷は、そのことを思い出させてくれる場所だった。
風が静かに吹いた。
クロは立ち上がり、ミナの方を向いた。
「……行こう。ここにいたって、答えが全部出るわけじゃねぇ」
「うん。でも、また来よう。きっと、必要な時が来るから」
クロは小さく頷いた。
谷を背にしながら、彼らは再び歩き出す。
彼の過去と、彼のこれから――その狭間に立ちつつ。




