星は眠る
燈惺の顔は相変わらず美しく何事もなかったかのような表情をしているが、その銀の刺繍が入った黒の衣には誰かと争った形跡が残っていた。清心の宮殿には、多くの兵たちが警護に当たっていた。燈惺は一人で彼らと剣を交え、ここまで辿り着いたのだろう。
会えたという嬉しさと、彼を失うかもしれないという不安で、心がぐちゃぐちゃになる。
そんな不安を掻き消すように、燈惺は星華を強引に抱きしめた。逞しい胸板に頬が当たり、彼の激しい鼓動の音が伝わってくる。
「なぜいつもそうやって…私の元を去ろうとする?私の中で、お前が一番大事だとなぜわからない?」
星華の頭を自分の胸に強く押しつけながら、燈惺は低い声で珍しく叫んだ。星華に触れている手は震えている。こんなに感情的な燈惺を始めて見た。
彼はいつだって、静かに怒っていた。悲しい時も、怒った時も、その美しい顔を変えぬまま心の奥に想いや言葉をため込み、決して人に弱みを見せなかった。
そんな燈惺の激しい怒りを始めて見て、星華は彼に愛されていると痛感した。
「…ごめんなさい…私…」
大きな過ちに気づき、もう残っていないはずの涙が溢れ出る。
自分のことばかりで、燈惺の気持ちを考えていなかった。燈惺の胸に顔を押し付け、泣きはらした顔を上げると、先ほどの怒りはどこにいったのかと思うほど優しい顔で見下ろされていた。
「お前がいないと私は生きていけないと…わかればいい」
燈惺は愛おしそうに星華を見つめる。彼は冷たい人のようで、誰よりも熱い情熱を持っている。
彼の奥に隠されていたその情熱は、今全て星華へ注がれている。燈惺は星華の瞳から零れる涙を大事そうに指で掬うと、おでことおでこをこつんと優しく合わせた。
最後に星華の頭を優しく撫で、燈惺は星華を自分の後ろに隠した。
「…どうしてここが?」
菫麗は目を細めながら、燈惺へ艶やかな視線を送る。彼女も、燈惺がここまで来るとは思っていなかったようだ。
星華は燈惺がここにたどり着かないように、手を回したはずだった。陽惺が託した菫麗の悪事の証拠は、場所が分かったとしても簡単に掘り当てることは難しい。証拠を探さずにここまで来たとしても、燈惺は真の黒幕を知らなかったはずだ。
「父から全て聞きました。王妃様、父は貴方の所業をただ黙認していたわけではなく、隠居したように見せかけ、人知れず調べていた」
皆の疑問が伝わったのか。燈惺はそう言いながら、鋭い瞳で菫麗を射抜いた。
「やはり陵家は…潰しておくべきだった」
予想外な答えに星華は話についていくだけで必死だったが、菫麗は妙に納得したように顔を歪めた。
「没落貴族出身だった私の母は、生きるために貴方に仕えていた。そこで、貴方のその優しい裏の顔を知ったそうです。王妃の座につくために、何人もの王妃候補達に毒を盛っていたそうですね。その事実を知った母は貴方の元から去ったが、貴方は真実を知っている母を追い続けていた。母は父と伴侶になったが、母は貴女が自分を諦めないとわかっていた。父は事情を知り貴女から母を守るために、母を冷遇しているふりをして屋敷に隠し続けていた」
なぜ、泰惺は燈惺たちの母である美夜を愛していない振りをしていたのか。星華はずっと考えていたが、全てはこの菫麗の魔の手から守るためだったのだ。
美夜の悲しい過去に、星華は燈惺が心配になり隣に立った。燈惺は表に出さないようにしていたが、誰よりも母の愛に飢え、行きようのない想いと戦い続けていた。この事実を知って、どんなに辛いだろうか。
そんな星華の不安を感じ取ったように、燈惺は菫麗を睨んだまま星華の手を握りしめた。
「私から逃れれる人はいないわ。それなのに美夜だけは、上手く逃げたから可笑しいと思っていたの。でもある日、美夜にそっくりな貴方を見て陵家に美夜がいるのだと、燈惺…貴方のおかげでわかったわ。陵家の守りは鉄壁だったから苦労したわ。美夜を消すまでに、時間がかかった。もちろん、美夜は私に仕えていた恩があるから、選択権を与えた。彼女は自ら死を選んだから、陵家を残しておいてあげたのに、美夜の息子たちは私を追い詰めた。まさか、陵泰惺にも裏切られるとはね」
恐ろしい菫麗の告白に、燈惺の表情は怒りで冷たくなる。まるで、菫麗へ向ける目は、本当の死神のように心が凍えてしまいそうなほど冷たかった。
星華は燈惺の代わりに大粒の涙を流しながら、燈惺の手を強く強く握る。冷たい瞳とは裏腹に、燈惺の手は熱がこもっていた。
「何が信じるだ!お前は、黒龍の者達を使って母を死に追いやった。真相に近づいた兄までも殺め、今は私の妻の命を犠牲にして、息子を生かそうとしている…」
燈惺は声を荒げると、沈覚に抑えられながらまだ獣のように暴れている清心へ目をやる。
その非難の視線に、菫麗は突然声を上げて笑い出した。
高笑いしながら、満足そうに星華たちを見る。息子があんな姿になっているのに、どうして笑えるのか不思議だが、菫麗はその高笑いをやめなかった。
「何を言おうと無駄よ。燈惺…貴方は、皇守衛が陛下に報告していると言った。貴方はまだ、皇守衛を信じているのね。陛下は、何も知らずに過ごしているだけよ」
彼女には、なぜか勝利の確信がある。自信に溢れた顔で微笑む姿は、もはや狂っているように見えた。
燈惺は何か悟ったようで、一瞬とても悲しそうに目を閉じた。
「やはり…柳誠弦は、貴方の手駒の一人だったのですね」
星華と繋いでいた燈惺の手に力が込められた。
柳誠弦は皇守衛第一指揮官であり、燈惺の上司であり、陽惺の友でもあった人だ。
思い出した記憶の中で、陽惺は星華に良く誠弦のことを兄のように慕っていたと話していた。陽惺も死の間際、彼に裏切られていると知ったのだろうか。
まるで出番を待っていたかのように、誠弦は入り口から静かに現れた。
彼は、皇守衛の立派な官服を身につけている。その優し気な顔は、やはり悪人は見えない。
諦めたように微笑む表情には、後悔さえ見える。
「…手駒とは酷いな。でも、ここまで辿り着いた。さすがだ」
「兄が調査していた行方不明者の件がうやむやにされたのは、あまりに不自然でした。兄は事件が闇に葬られても、密かに調べ続けていた。兄のそばに、黒幕の息がかかった部下がいると考えて妥当だった。私がまず調査したのは、皇守衛からでした。しかし、兄の死に涙を流していた貴方だけは、兄の死を心から悲しんでいると思い…見過ごしてしまった」
燈惺は切なげに自嘲した。
口や態度では冷たく見せていても、燈惺が誠弦のことを信用していたことは星華にも十分に伝わっていた。人を信じない燈惺がようやく信じていた人が裏切っていたなど、あまりに悲しい結末だ。
「俺も…陽惺を殺す気などなかった!」
燈惺の想いが伝わったのか、誠弦は信じてくれと、首を振りながら声を張り上げた。しかし、燈惺から向けられた視線に我に返ると、冷静に答え合わせを始めた。
「最初は陽惺の思いを聞き、母親の件、行方不明者の件を共に調査していた。調査していく中で、俺達は王妃様にたどり着いてしまった。あまりに巨大すぎる敵だ。手を引くべきだと陽惺を説得したが、あいつは聞かなかった。何度も言い聞かせたのに、あいつは俺に手を引くように言い一人で調査を続けた。最後まで聞かず、この小娘のために…命を落とした」
静かに話していた誠弦だが、星華へ送る視線は憎しみに溢れていた。
「陽惺お兄ちゃんと逃げた日、お兄ちゃんは傷らだけで戻ってきた。私はその傷を治したはずなのに…お兄ちゃんは亡くなっていた。貴方が…関係していたの?」
あの日、陽惺は星華を守るために傷だらけになり、星華を残していた空き家に戻ってきた。あの時確かに、星華は陽惺の傷を背負い治したはずった。その証拠に、陽惺は代わりに傷を背負い眠った星華を両親の元へ返している。
その後、何者かに殺された。
陽惺と星奏はあの時、黒幕を追い詰める証拠を手にしていた。
彼は命がけで証拠を陵家に隠し、悪事の証拠を守ったのだ。あの時点で、陽惺はきっと父が母が本当は愛し合っていたことに気づいてた。あの場所の意味を分かっていて、菫麗に絶対に見つけられないであろうあの場所に隠したのだ。
陽惺は自分の代わりに、いつしか燈惺ががその証拠を見つけ、全ての悪事が暴かれることを読んでいたのかもしれない。
その後、陽惺は亡骸として見つかり、王弟夫人の事故死を防げなかったため自害した哀れな皇守衛となった。菫麗の手の者に命を奪われたのだ。
「王妃様に陽惺一人の命を消すなど、簡単な事だった。俺は陽惺の命を奪わないという約束で、王妃様の手駒になった。なのに、陽惺は最後まで…証拠を渡さなかった。藍星華を守るために…俺に剣まで向けた」
ゆっくりと誠弦は言葉を続けながら、理解してくれと言う視線で燈惺へ歩み寄る。手を伸ばせば届きそうなところで、燈惺が誠弦へ剣を向けた。燈惺は、星華を自分の後ろへ隠す。
「星華のせいではない。貴方が王妃の罪を隠蔽しようとしたせいだ。兄は道に外れた貴方に戻ってほしくて、剣を向けたはずだ」
燈惺の背中に守られながら、誠弦の様子を見ていた星華は息を呑んだ。
胸の中に何かが詰まったような違和感がずっと残っていた。何かを間違えている。必死にその間違い探しをして、ようやくわかった。
「……両親を殺したのは沈覚ではない。柳誠弦…貴方だったのね?」
星華は隠れていた壁越しに聞こえてきた低い声と、高貴な香りを記憶に植え付けてきた。そればかりに気を取られていた。
この部屋に漂う香りは独特のため部屋を出る際は、王妃や清心も別の流行の香りで隠していたようだ。あの日は清心の発作が起こり、両親を殺めた者は香りを消すのも忘れ藍家へ向かった。
最初は清心のお付きである沈覚が両親の命を奪った本人だと思ったが、沈覚の歩幅は広く足音が荒く響いていた。
両親を失った日を鮮明に思い返す。声ばかりに意識がとらえていたが、足音は決して荒々しくなかった。殺人者とは思えないほど、上品な足音だった。
今も誠弦は突然現れた。彼は影のように歩く癖がある。
先ほどの星華への憎しみが込められた声は、飄々していた誠弦から想像できないほど低い声だった。陽惺の件で、彼は星華に言葉にできないほどの恨みを持っている。
彼もまた菫麗のようにもう一人の自分も秘めていたのだ。
「俺は陽惺の復讐を果たしただけだ」
誠弦は歪な笑みを浮かべたまま、罪を認めた。彼は菫麗の命令で、星華の両親を殺めた。
力が抜け倒れ込みそうな体を燈惺が支えてくれる。燈惺も怒りで拳を震わせ、自分のことのように怒っていることが伝わってくる。
「それを機に貴方は…若くで皇守衛指揮官まで上り詰め、王妃の悪事に手を貸し続けた。王の信頼が厚く、誰よりも王のそばにいた貴方が味方だったから…王妃に疑いの目が向くことはなかった」
「燈惺…お前が見つけだした証拠を陛下が見ることはない。藍星華を諦めれば、お前の命だけは助ける」
そうやって誠弦は、王妃の罪を隠し続けてきた。本気で燈惺の命だけは救おうとしている様子だったが、
「私が星華を諦めることはない」
燈惺は星華を抱き寄せたまま、はっきりとそう言い切った。
「陽惺と…同じことを言うんだな」
誠弦は悲し気に燈惺へ視線を向ける。
「でも…もう、終わりだ」
誠弦が剣を抜こうとした時、大勢の足音が怒涛のように押し寄せた。
「それは、こちらの言葉だな」
怒りと悲しみで満ちたこの空間に、光のような声が渡り響いた。その高らかな声に、希望を感じる。
堂々と苑志を連れ現れたその人は、とても眩しかった。彼の後ろには、多くの皇守衛達が構えていた。
「陛下は今日寝込んでいて、誠弦…お前でも部屋に入れていないはすだ」
「殿下…」
「叔父上の力を借り、父上は叔父上の所で匿ってもらっている。蓮承と雨衣が、父上に王妃の悪事の証拠を渡している」
翔貴の堂々とした言葉に、星華は胸が熱くなった。
王弟も、蓮承も、雨衣も皆…命懸けで戦ってくれていた。一人で戦っていたつもりの自分が馬鹿馬鹿しくなる。いつだって、星華は皆に守られていたのだ。
翔貴は迷わず星華の元へすぐにかけより、泣き腫らした顔を覗き込んだ。
「遅くなってすまなかった。もう大丈夫だ」
「…翔貴、ごめんね」
首を振りながら星華の頭を一瞬だけ撫でると、翔貴は燈惺と視線を合わせる。二人は微かに頷き合うと、二人で星華を守るように立った。
そして翔貴は、未だに暴れ続け沈覚に押さえられている清心へ、憐みの視線を送る。辛そうに息を吐くと、その原因である菫麗へ体を向けた。
「王妃様…貴方は…」
「翔貴、私は貴方が大嫌い」
いつも浮かべていた優しい笑顔のまま菫麗はそう告げた。
「初めて父に連れられていった王宮で陛下と出会い、私は必ず彼の妻になると決めた。どんな手を使っても、彼の愛をものにすると誓ったの。なのに…禾妃は、唯一私の手を逃れ…陛下から寵愛を受けた。私が一番手にしたかった者を奪った禾妃が悪い。息子だけはと頼まれたから、清心の隠れ蓑になってもらうために生かしておいたけれど…まさか貴方にまで恩を仇で返されるとはね…」
息子より翔貴が王に向ていると、董麗は表向きでは物分かりの良い王妃を演じていた。それも全て、清心の体が弱いことを知られないためのことに過ぎなかったのだ。
彼女は王妃という地位につき、清心という男児までもうけた。誰から見て羨む人生のはずだったが、彼女が真に求めていた王の愛だけは手に入らなかった。
王は菫麗という王妃と共に、数人の側室を持った。王妃と、側室二人の間に子をもうけたが、王が女性として愛していたのは禾妃だけだった。それは誰の目から見ても間違いがなかった。
王という地位にあるため、複数の妻を持つという苦悩は大きかっただろうが、心は禾妃に置いていた。
それを表わすように、王は禾妃を失くした後、心の病に落ち体調も悪くなる一方だった。そこまで深く禾妃を愛していた。
それこそ、菫麗が求めていた愛なのかもしれない。これは、ただ好きな人にに愛して欲しかった少女の夢から始まった悪夢だ。彼女は、夫に対しても、我が子に対しても愛し方を間違っていた。
「王妃様、貴方を第二の母と慕ってきましたが…そう思うのはもう今日で最後です」
翔貴はやるせない表情で董麗に頭を下げた後、迷いなく剣を取った。燈惺も同時に董麗へ剣を向けた。
「兄が残した、貴方が禾妃を殺した証拠と、清心様のために犠牲にした人々の亡骸を隠していた部屋の地図は陛下の元です。この部屋の外にも、多くの皇守衛が貴方を待っています。もう言い訳は通用しない。逃げ場もない。全て終わりです」
後ろに控えている皇守衛達は、王妃たちへゆっくりと距離を詰めていく。息を呑むのもできないような緊張感がその場を支配していた。
その時、柱の奥に隠れていた小燕が弓矢を向けていた。その標的は、星華だった。
素早く放たれた矢は、容赦なく向かってくる。その矢に気づいた燈惺が、星華を抱きしめ矢へ背を向ける。
「燈惺…!」
泣き叫ぶような星華の声と同時に、矢が人を貫いた鈍い残酷な音が響きわたった。星華は目の前の血を見て、両手で口を押えた。
燈惺は胸に抱いていた星華をゆっくりと離し、倒れているその人へ駆け寄った。
「柳指揮官、なぜ…」
矢を受けたのは星華でもなく、燈惺でもなく、誠弦だった。燈惺は地面に膝をつき、誠弦を抱え込んだ。誠弦は燈惺を庇い弓矢を真正面から受けたのだ。
誠弦は辛そうに息を吐きながら、冗談を言っているような明るい笑みを見せた。
「お前が冷たい目で皇守衛に入ってきた時から、いつか…こうなる時がくるような気がしていた」
「何を言って…」
燈惺は必死に、誠弦の真意を見定めようとしているようだった。彼が何のためにそこまでして、兄のために悪事に身を落したのか。なぜ今、命がけで燈惺を救ったのか。
「あいつが生きてくれていたら…それだけで良かったのに…、あいつは藍星華を守り証拠を渡さず…助けようとした時には…王妃様の部下に殺されていた。お前と藍星華が結婚した時、俺が…どんな気持ちだったかわかるか?」
陽惺を亡くし誠弦が流した涙は、きっと真実だったのだと星華は思う。陽惺の話をしながら、誠弦は今も涙を流していた。燈惺を見る目だけは、いつもとても優しい。
「そんなの知るわけない!全て…兄のためだったと?」
「信じるかは…お前次第だ…」
誠弦は後悔を隠しきれてない笑みを見せた後、目に焼き付けるかのように燈惺を見つめる。
今にも途切れてしまいそうな誠弦の姿を見て、星華は無意識に手を伸ばした。しかし、誠弦は星華の手首を掴んだ。どこにそんな力が残っているのかと思うほど手首を締め付けられる。
「藍星華、お前にだけは…救われたくない」
あの時と同じ声で、誠弦は星華の手首を荒々しく突き放した。
そして、力尽きたように誠弦は目を瞑った。燈惺は涙は流していなかったが、心の中で血の涙を流しているように星華は見えた。
星華は誠弦を抱えたまま耐えている燈惺を後ろから抱きしめた。
誠弦は星華の両親を殺めた。
これからも彼を許すことはできないが、彼の人生はあまりにも哀れだった。星華達の想像を超えるほど、誠弦は陽惺を想っていた。人は人を想い過ぎて、堕ちてしまうこともあるのだと痛いほど思い知らされる。誠弦も菫麗に想いを利用された一人だ。
きっと彼が陽惺亡きあとも、王妃の悪事に手を染め続けてきたのは、陽惺の陵家と燈惺を守るためだったのだろう。そう言ったら燈惺はどう言うのだろうか。星華は燈惺の代わりに涙を流す。
「うあぁ…!」
しかし、干渉に浸る間もなく、清心が酷く暴れだした。清心の力は強くなる一方のようで、沈覚が清心を抑えこむのはもう限界のようだった。
清心は人とは思えぬ力で沈覚を突き飛ばすと、目に入った皇守衛達を獣のように攻撃していく。清心は皇守衛達を人形かのように襲い掛かり投げ飛ばすを繰り返す。そこは血の海と化していた。
その場を見かねた皇守衛の一人が、翔貴が止めるのも聞かずに清心へ矢を放った。
菫麗の悲鳴が響いたが、清心は矢を受けても一瞬立ち止まるだけで、何事もなかったかのようにまた皇守衛へ襲い掛かる。挙句の果てには、小燕までも清心に捉えられ、人形のように壁へ投げ飛ばされ意識を失っていた。
「清心、清心…」
必死に呼びける菫麗の声さえもう届かない。清心はちらりと菫麗を見るが、その目は吊り上がり次の標的は母であることを示していた。もう彼には、清心の意識が残っていなかった。
菫麗に飛びかかった清心を止めたのは、燈惺と翔貴だった。彼女にきちんと罪を償わせるつもりだ。
二人は清心を傷つけぬように鞘を抜かぬまま、襲いかかる清心の攻撃を必死に食い止めているが、今の清心の力は燈惺をも超えている。その細い身体のどこにそんな力があるのかと疑うほどだ。
燈惺も翔貴も少しずつ追い詰められていく。二人がかりでも歯が立たず、二人とも壁に投げ飛ばされた。鈍い音に、星華は息が止まるようだった。
無残に壁に体を打ち付けられた姿はあまりに痛ましい。壁にぶつかった衝撃で血を吐き出した二人を見て、星華は悲鳴を止めることができなかった。
この二人で歯が立たぬなら、誰も勝ち目がない。まだ残っている皇守衛達も怯えた表情で退く。
清心は迷わず燈惺へ近づくとその細い左手で倒れ込んだ燈惺の肩を掴み、右手で燈惺の首を掴んで握り閉めた。
「うっ…」
燈惺の低い呻き声に、星華の血の気が引いていく。もう力も入らないのか、燈惺の手から剣が落ちた。
「清心様、やめて!お願いだから!清心様…やめて!」
行っては駄目だという声も聞かず、清心の背中にしがみついた。
全ての力を込めて、必死に燈惺から離そうとするが、彼はぴくりともしない。清心は燈惺の首を掴んだまま、首だけ振り向き星華を視線に入れる。
「清心様、やめて。貴方の本心ではないはず!優しい貴方に戻って!あなたは困っている時、いつも…助けてくれた」
王宮で、春搖から池に突き落とされた時も、清心は自分が濡れるのも顧みず助けてくれた。清心は困っている人をほおっておけない優しい少年だったはずだ。思い出と共に、必死に瞳を見て訴えかける。
その時、燈惺の首を掴んでいた手が緩んだ。燈惺が解き放され苦しそうに壁に背を預けた時、星華の後ろから走ってくる音が聞こえた。
「…星華!」
反対側の壁の前にした翔貴が何かに気づき叫んだ時には遅かった。
菫麗が星華に向かって剣を刺していた。人肌を貫いた鈍い音が響き、床には血が滴った。
「…なぜ…」
彼女の狙いは星華だったが、星華は痛みを感じなかった。それは清心が星華を庇うように、正面から母の刃を受けていたからだ。
「藍星華がいなくなったら…貴方が…生き残るはずなのに…なぜなの清心…」
愛する子へ自ら剣を向けてしまった菫麗は、力尽きたように地面に膝を付いて茫然と清心の血で汚れた手を見つめていた。
まだ剣が突き刺さったままの清心は、守るため抱きしめていた星華をゆっくりと離した。その目は、星華が知っている純粋で優しい清心の目だった。
清心は口から血を吐き出しながら、その優しい顔で涙を流しながら泣きそうに笑った。
「…星華…、君は知らないだろう。私はいつも遠くから君を見ていた…。君は私の…うっ…」
その先はもう言葉にならなかった。
優しい清心に会えたのもつかの間、また清心の目が変わっていく。また獣が威嚇するような顔つきになり、星華の目の前で暴れだそうとしている。
あまりにも人の命を犠牲にし過ぎた清心は、邪気により人でなくなる。
正気を失ってしまうと、誰構わず襲い掛かり多くの命を奪ってしまう。その体は不死身となり、誰も彼を止めることは出来なくなっていしまうと桃蘭は言っていた。
清心も自分の中の邪気と必死に戦っているようだったが、清心の瞳は吊り上がり呻き始めた。
もう彼を抑えることはできないのだろうか。
星華はずっと考えていた。
彼に無理やり入れられた龍涙の力がそうさせているのなら、彼を抑えられるのは龍涙の力を持つ星華しかいないのではないのかと。
桃蘭がなぜ、星華をここまで導いてくれたのか。
彼女には、こうなる未来が見えていた。星華がいなければ全てが終わらないとわかっていたのではないかと、うすうす感づいていた。覚悟はとっくにできている。
でも、今回の覚悟はいままでの覚悟と違う。何があっても、彼の元へ帰るという覚悟だ。
星華は、燈惺へと視線を向けた。唇をぎゅっと噛みしめ、大好き愛しているという言葉の代わりに燈惺に向かって微笑んだ。
その時、隠し扉から蓮承と雨衣も走ってきたのが見えた。大好きな者達の姿に何よりも大きな力をもらう。
「星華!駄目だ…!」
燈惺の悲鳴のような声が響く中、星華は暴れる清心を抱きしめた。どんなに清心が変わってしまおうと、不思議と星華は怖くなかった。優しく抱きしめる。
最初は暴れ続けた清心も、星華の温もりに動きを緩めはじめた。母が子を抱きしめる様に、あやすように背中を包み込む。
清心はがたがた震えていたが、少しずつ静かになった。星華は、何かが自分の中へ流れ込むような不思議な感覚に陥った。
いつの間にかあの優しい目に戻っていた清心は、涙を流しながら星華を見つめていた。
「初めて見た時から君を…」
そこまで必死に目を開けていたようだが、清心はことんと力尽きたように瞼を閉じた。その顔は安らかに眠っているようだった。清心は、星華の腕をすり抜けて地面へと倒れた。
なぜだろう。体が重くなり、とても眠い。
星華の体は言うことを聞かずに、そのまま後ろに倒れていく。床にぶつかる寸前の所で、燈惺がしっかりと星華の体を抱きとめた。
「星華!…星華」
「燈惺、とても…眠いの…」
襲い掛かる睡魔に瞼が重くなる。燈惺は今まで見たことないような泣きそうな顔で、星華の体を大きく揺らす。そして、無事を確かめるように星華の頬や頭を震える手で触れた。
「駄目だ…寝るな。寝てはだめだ。ずっと共にいると…約束しただろう!」
「えぇ、約束したわ…。私もずっと貴方の…傍にいたい」
星華は必死に目を開けながら、燈惺の頬へ手を伸ばす。
何度も見ても美しい目をしている。最初はその恐ろしいほど冷たい瞳の理由を知りたかった。しだいに、その瞳に映りたいと願いうようになり、燈惺の言葉行動に、心を躍らせ、涙を流す時もあった。
そんな瞳に、今映っているのは星華一人だ。
「共に私達の屋敷へ帰ろう。そして、二人で…あの庭園で星を見よう。お前が望むなら…蛍も見に行こう。まだ、伝えていないことも…やってあげたいことも…たくさんある。星華…私は」
珍しく燈惺は早口で言葉をまくしたてる。その声は震え、最後は涙で言葉になっていなかった。星華の目はもう半分閉じかけていたが、最後の力を振り絞り笑みを浮かべる。
「燈惺…泣かないで。貴方は…私の星だった」
燈惺の美しい目から零れ落ちた涙が、星華の陶器のような頬へ落ちていく。
力尽きたように星華の手が地面へと落ちた。星華は必死に狭まる視界の中で必死に燈惺を追っていたが、目を開けきれないほどの睡魔に襲われ瞳を閉じた。
燈惺は声にならぬ声を上げ、動かなくなった星華を抱きしめ続けていた。




