星の初恋
閉ざされた中庭にいながら、外のざわめきにそっと耳を澄ませる。麗禾殿に籠っていても、宮中の賑やかさが十分に伝わってくる。
三日後に、この国の第三王子である清心の誕生祭が行われる。
王子の誕生祭に向けての準備で宮中は大忙しだ。翔貴も誕生祭の進行を任されているため、今日は麗禾殿を離れている。
星華は朝からずっと外の音に耳を傾けながら、中庭の白幻花をひたすら眺めていた。
今日の夜、桃蘭が迎えに来る。その前に、美しいこの花を目に焼き付けておきたいからだ。
白幻花の木の幹に背中を預け目を瞑り、花の香りを胸いっぱいに吸い込むんだ。そうすると、自然に燈惺の姿が浮かんでくる。今はそれだけで強くなれる。
しかし、突然中庭に響いた足音に目を開ける。
中庭には星華と翔貴しか入らないように苑志が見張ってくれているはずだが、その人は当たり前だというように中庭に足を踏み入れていた。
ひりひりと感じる熱い視線から目を離せなくなる。相変わらず美しいその人に唇が震えた。
「……燈惺」
彼は官服ではなく、漆黒の生地に銀の刺繍が入った衣を身に着けていた。
切れ長な綺麗な瞳、すっと長い鼻、形の良い唇、その完璧すぎる容姿に、すらりとした長身。そして、武人と思えない肌の白さ。人離れした美しさゆえ、黒が良く似合う人だ。
燈惺は迷いなく星華の元へと足を進める。戸惑いで動けない星華の前に立つと、真っ直ぐと見下ろしてくる。
耐えれずに目を背けると、頬に手を置かれ燈惺を見上げるように促される。強引な行動ではあるが、何も恐れる者がないと言われる彼の手は震えていた。
「…会いたかった…」
「……っ…」
そう苦し気に囁かれた途端、目頭が熱くなる。
私もだと、会いたくてたまらなかったと、今にも吐き出してしまいそうで、星華は必死に唇を噛んで堪えた。燈惺はそんな星華を情熱的に見つめ続ける。
「ここに来ては…だめ」
「なぜだ…」
「それは…」
「…もう傷は治った。私の傷を負わせてしまい…すまなかった。もうお前に傷を負わせることはない。ようやく…触れることができる」
あまりにも真面目な顔でそう言われ、星華は涙が引っ込んだ。星華はもう二度と会わない覚悟で陵家を出たというのに、まるで会いにくるのが当たり前だというような言い方だ。
「そう言うことではなくて…もしここに来たことが知られたら大変なことになる。早く帰って」
燈惺は皇守衛指揮官であり、ここはあくまで王宮だ。こんな軽率な行動は許されない。
何より、燈惺はここにいてはいけない。星華は心を鬼にして、帰るようにと冷たく言って燈惺から視線を逸らす。
「私はただ妻に会いに来ただけだ」
帰らせようとしていることが不満のようで、燈惺は不機嫌そうに淡々と言い返して来た。
星華はとっさに燈惺を見上げてしまう。まだ妻と言われたことに、胸がときめくと同時にどうしようもない切なさがこみ上げてくる。喉の奥が熱くなり、言葉を紡ぐのに時間がかかった。
「…もう…妻ではないわ」
そう自分で口にして、誰よりも傷ついている。
「離縁していない」
「…何を…言ってるの?」
「まだ、お前は私の妻だ」
突然、自信満々に離縁していないと告げられ、何を言っているのかと星華は言葉を失ってしまった。
「なっ…」
「父は王弟に離縁状を渡したが、王弟には事情を説明し取り返している。しかし、敵の動向を探るためにも離縁が成立したと見せかけている。そのため、離縁が成立していないことを知っているのは殿下と王弟と雨衣たちだけだ。殿下には、私から直接説明したいと頼んでいた。辛い想いをさせて…すまなかった」
翔貴は絶対に星華を一人にはさせない。自分が麗禾殿を離れる時は苑志を置いていくため、外に出れない星華に苑志が外での出来事を教えてくれていた。
陵家の離縁の噂が都中に広がっていると言うことも聞いていた。
実際には、王弟は離縁状を受け取っていない。
一瞬芽生えた安堵を掻き消すように、星華は子供のように横に首を振る。
「離縁するわ…離縁して…」
「いやだ」
「…何で…私は…」
「離縁したくないからだ」
子供のような星華の態度を燈惺は一言で片づける。その態度にむっとして、星華は燈惺の胸を叩いた。
「貴方が認めるまで頼み続けるわ。お願いだから…離縁して。お願い…」
もう大切な人を巻き込みたくない。失いたくないのだ。
そう言いながら星華の目は涙で熱くなっていく。泣いてはだめだとわかっているのに、大粒の涙が零れてしまう。
これでは離縁しないでと、星華が泣いて頼んでいるようなものだ。それでも涙を堪えることができず、泣きながら離縁してという言葉を繰り返す。
燈惺は胸を叩き続ける星華の手を優しく握ると、意外な表情をしていた。
「じゃあ、なぜ泣くんだ?」
とても優しい声で、燈惺はどこか嬉しそうに笑っている。
星華が子どものように駄々をこねるなど初めてのことだ。そんな姿がまるで愛しいというように、死神と言われた男がとても暖かい視線を向けている。
このままでは決心が揺らぐ。
燈惺から離れようと企むが、星華の真後ろには白幻花の木があり逃げ場がない。その表情に心が揺らぐ前に星華は言葉を続ける。
「燈惺だって、最初はあれだけ離縁したがっ……っ!」
しかし突然、その美しい顔に口を塞がれた。燈惺は星華の両腕を掴み顔の横にあげたまま、口付けをやめない。
顔を背けようとするが、その形のよい唇は離れてくれず、より深くなっていく。抵抗しなければと頭では思うのに、甘い口づけに力が入らなくなる。
ようやく熱い口づけから解放された星華は、肩で息をしながらその澄まし顔を見上げた。
「何を言われようと離縁しない」
「…何でそこまで…」
頑なに星華を求めてくれるのか。その問いに、燈惺は優しく目を細めると星華の頬を両手でつかんだ。
「理由は、星華…お前が何よりも大事だから。それだけだ」
「でも…」
その先を言おうとすると、触れるだけの口づけを落とされる。
「星華が兄の死際にいたことはわかった。そして、おそらく兄はお前を守ろうとしていたのだろうということも。兄を失ってから、兄の死の真相を探り敵に復讐することだけを考えてきた。そのために、星華…お前と結婚し…お前を疑い傷つけもした」
燈惺は星華がもう逃げないことを確認したのか、星華の頭に触れながら言葉を続ける。
「しかし、流星祭りの夜、お前から兄を殺したと聞いて、想ったことはただ一つ。それでも、星華を離したくない」
そう言いながら、燈惺は苦し気に眉を寄せながらも優し気に微笑んだ。
「ずっと兄のことを話さなかったのは、真実がわかり…今のようにお前が離れていくことが何よりも怖かったからだ」
星華ははっとして、燈惺を見上げる。
まさか、彼がそんなことを思っていたなど想像もしていなかった。燈惺のことを好きになるほど、何も話してもらえないことを悲しみ、勝手に壁を感じていた。
こんなにも愛されていた。そう思うほど、陽惺との過去が星華を苦しめる。
「私がいなかったら…陽惺お兄ちゃんは貴女のそばにずっといれたはず…」
その先を言おうとすると、唇に温かいものが当たる。燈惺はその先を言わせまいと、星華の唇に人差し指をあてていた。
その目があまりにも優しくて、星華の目は涙で溜まっていく。燈惺はそんな星華を愛おしそうに見つめた。
「殿下と比べたら短い時間だが、お前のことを理解しているつもりだ。星華のせいで兄が亡くなったという話が紛れもない事実だったとしても、お前は最後まで命がけで兄を救おうとしたはずだ。夫である私が何よりもわかる」
「…燈惺」
名前を呼ぶだけで胸がいっぱいになる。
燈惺は真剣な表情になると、優しく星華の体を抱きしめた。ずっと求めていた温もりだ。頭と背中に手を回され、苦しくなるくらい抱きしめられる。
「それでも…兄のことで誰かがお前を責めたら私が庇う。お前がどうしても罪を償うというのなら、私も一緒に罪を償う」
想像もしていなかった言葉に、星華が必死に身につけていた心の鎧が解けていく。
白幻花の木の下、声が抑えきれず泣きじゃくる星華を燈惺は泣き止むまでずっと優しく抱きしめてくれた。
都を出た所にある美しい湖を眺めながら、星華は燈惺の隣で笑顔を咲かせた。
王宮を出た時にはまだ太陽の姿はあったが、湖についた頃にはもう夜になっていた。辺りは真っ暗だが、目の前に広がる湖の上を自由に飛び回る蛍たちが照らしてくれている。
星華の願いで、二人でこっそり王宮を出た。
人気がない場所で二人きりだが、燈惺のことだから翔貴に連絡していることもわかっている。
一度だけ燈惺が見せてくれた蛍を目に焼き付けたかった。
たくさんの蛍が連なり、星が目の前で輝いているようだ。
子どものように蛍を追いかける。一匹の蛍を両手で包み込んだ時、後ろから燈惺に抱きしめられた。こうして燈惺に抱きしめられると、彼との体格の差を思い知らされる。
後ろを見上げると、また触れるだけの口づけを落とされる。そして、燈惺は星華の手を両手を包み込んだ。
武人とは思えない美しい手だが、星華の手がすっぽり隠れるほど大きな手だ。とても安心する。
「一つ聞きたい。お前が知っている兄はどんな人だった?」
燈惺が初めて、陽惺のことを星華に尋ねた。
きっと燈惺は、星華がみんなを巻き込まないために事件の真相を話さないとわかっていて、選んだ質問なのだろう。
「太陽のような笑顔で海のように優しい人。そして、何より兄妹のことを大事に想っている人で、良く貴方と睡月のことを私に話してくれた。でも…時々悲しそうな目をする人だった」
思い出すだけで胸が温かくなる、そんな人だ。
燈惺とは一見正反対に見えるが、情が熱くて、とても悲しい目をするところは良く似ている。
星華を後ろから抱きしめたまま、燈惺はその腕に少し力を入れた。すっぽりと包まれ大きな安心感に包まれる。燈惺はそのまま、星華の肩に顔を埋めた。
「私の前で決して弱みを見せない強い人だった。星華の前で本心を出せていたのなら、兄もお前の存在に救われていたのだろうな」
「そんなことないわ…」
「兄は良く会わせたい人がいると言っていた。星華だったんだな」
「私はずっと陽惺お兄ちゃんの話す弟に興味を持っていたから…」
陽惺との会話を思い出し、あまりの懐かしさにくすっと笑みが零れる。
星華がずっと想像していた陽惺の弟に会いたくて、初めて会った時から小さな初恋を抱いていたと言ったら燈惺はどんな顔をするだろうか。
すると、燈惺は星華の体をくるりと回した。向き合う形になり、燈惺は星華の背中にしっかりと手を回している。
「私が弓矢に刺された時助けてくれたのも、星華…お前だろう」
「…知っていたの?」
星華は記憶を失くす前に、鍛錬中に弓矢が誤って刺さったという燈惺の傷を怪しまれない程度に治した。力を知られないよう姿を見られる前に、陵家を後にしたはずだった。
驚きで目を見開く星華を見て、燈惺は子供が悪戯をしたような珍しい表情を見せた。
「今思えば、あの傷の治り方はあまりに不自然だった。傷をみてくれたのが女子だったということだけはわかったが、兄は腕のよい医者がいたとした教えてくれなかった。今こうして…お前と兄の関係を聞いてようやく繋がった。お礼を言うためその人に会いたいと頼んでも兄が会わせてくれなかったのも、星華の秘密を守るためだったのだろう」
傷を治したのが幼き少女だと知られると、龍涙の力を知られることになる。龍涙の力を知るということは、燈惺にも危険が及んだだろう。
思い返すほど、陽惺はいつだって星華と燈惺を守ろうとしてくれていた。
そこで星華はあることに気づき、勢いよく顔を上げた。
「もしかして、忘れらない女子って…傷を治した私のこと?」
「…忘れない女子?まさか公主か礼風に何か言われたのか?」
燈惺の目が鋭く光る。先ほどまでの優しい表情が一気に不機嫌なものへと変わる。
視線をずらすと、両手で頬を掴まれ真っ直ぐに燈惺を見させられる。
「…公主様に貴方には忘れられない女子がいると聞いて…私はてっきり…初恋の人がいるのかと思って…そのあと礼風さんが現れ貴方と親しかったから…」
明らかに冷たくなっていく視線に、星華の声は小さくなっていく。
燈惺と礼風の間には特別な何かがあると、星華は一人で勝手に殻に閉じこもり、春搖の言葉を信じ切っていた。
確かに彼女は、忘れられない女子がいると言っただけで、彼女達の思惑通りに星華が勝手に勘違いしていただけだ。あの時は、彼の心に別の誰かがいると想像しただけで苦しくてたまらなかったが、まさかお礼を伝言えたいだけで、その相手が幼き自分とは思いもしなかった。
燈惺は見せつける様に大きくため息をついて、両手で星華の頬を包み込んだまま、熱い視線をこれでもかというほど浴びせられる。
「兄のための結婚だったが、星華と出会い…初めて人を想うということを知った。俺の初恋は、星華…お前だ」
星華が大好きな低い声で甘く囁かれる。何よりも欲しかった宝物のような言葉だ。こんなに嬉しいことなど二度とない。あまりの嬉しさに自然に頬が緩み、自分でも笑顔が咲き誇るのわかる。
「貴方はいつから…そんな愛ばかり囁くようになったの?」
冗談めいてそう言った星華をみて、燈惺はどこか可笑しそうに笑った。彼がこんな少年のように無邪気に笑うのを初めて見た。
「星華のせいだ。責任はとって貰わないとな」
幼いあの頃、燈惺という少年に出会いその深い悲しみに心を痛め淡い想いを募らせた。それは、いつか見たいと心から願っていた笑顔だった。
「実は…私も初恋相手を思い出したの」
「まさか…殿下…いや、兄か…」
星華の突然の言葉に、ようやく見れた燈惺の笑顔は消え、星華を疑うような視線に変わる。
そんな姿が愛おしくて星華は吹き出した。お茶目な顔で燈惺を見つめ返す。
「燈惺…貴方よ…っ…」
その先を言い終わる前に、星華は勢いよく燈惺の胸の中に戻された。
蛍の光に照らされながら燈惺により口づけの嵐をあびた後、久しぶりに琳おばさんの麵屋へと行った。
燈惺を見た途端、琳は今にも襲い掛かりそうなほど怖い顔をしていたが、しっかりと繋がれている手を見て表情を変えた。
離縁の噂はもちろん琳の耳まで届いていたようだが、箸も持たせず琳が運ぶ料理を星華に食べさせる燈惺の姿を見て、琳は色々と察してくれたようだ。燈惺の溺愛ぶりに呆れながら、ご馳走を振る舞ってくれた。
琳にも今までのお礼を伝えたかったため会えて本当に良かった。燈惺とともに感謝を伝えると、琳は目に涙を浮かべながら、強く抱きしめてくれた。彼女はいつも何も聞かず星華を受けれいてくれた。まるで母のような人だった。
「そろそろ行こう」
燈惺に手を引かれ琳の店を離れる。琳は二人の背中が見えなくなるまで見送ってくれた。
人気が少ない場所に、苑志が迎えに来てくれているため都の夜道を燈惺と向かう。
その間も燈惺は片時も星華から離れようとせず、繋いでいる手を離そうとすると不機嫌になり、真剣な表情で腕の中へ連れ戻される。
最初はじゃれているのかと思ったが、苑志との待ち合わせ場所が見えてきた時、真剣な表情で手を引かれた。振り返ると燈惺の目が濡れていることに気づき、星華は自らその手を握り返した。
彼も今…とても不安なのだ。
向きあう形になり、揺れる瞳に捉えられる。燈惺は確かめるように星華の手を握りしめた。
「星華…お前を失うのが何より怖い。…怖いんだ」
彼の弱音を始めて聞いて、胸が痛いほど締め付けられる。
もう大事な人を失いたくないと、燈惺を守りたいと必死だったが、彼も同じ気持ちなのだと気づかされる。星華が命がけで燈惺を守ろうとしているように、燈惺も命がけで星華を守ろうとしてくれている。
痛いほど伝わってくるその想いが愛しくてたまらない。
もう彼に会うのはこれで最後かもしれない。星華だって、そう思うとこの手を離すのが怖い。
でも、今回だけは星華に燈惺を守らせてほしい。
星華は背伸びをして、その美しい顔を両手で包み込んだ。
「大丈夫。一緒に罪を償うと言ってくれたでしょう。陽惺と何があったかきちんと話すから、今は貴女にしか頼めない…陽惺からの伝言を託すわ」
大丈夫だと言い聞かせるように笑顔を見せる。そして、また背伸びをして燈惺の耳元で、陽惺からの伝言を一言ずつ大事に、全ての思いを込めて伝えた。
言い終わった途端、燈惺は星華を勢いよく強引に抱きしめた。苦しいほどの力で、背中までしっかりと手を回される。
「…もうすぐ星華の誕生日だろ?全て終わったら、必ず共に祝おう」
「えぇ、約束するわ」
星華は初めて自ら燈惺の美しい唇へ口づけを重ねた。燈惺は一瞬固まったが、離れようとした瞬間に頭に手を回され深い口づけが落とされる。
あまりにも幸せ過ぎて永遠に続けばよいのにと思えた時間だった。
ようやく唇を離されても、その綺麗な顔はまだ目の前にある。燈惺と星華はおでこをこつんと会わせて、ふっと笑みを零しあう。もうこの愛しさを記憶を忘れることがないように、心に焼き付けるように見つめ合った。
星華はしっかりと握られた手をそっと離した。
何かを口にしたら全てが崩れてしまいそうで、何も言わずに、心の中でごめんねと謝りながら背を向けた。
燈惺からの痛いほどの視線を背中に感じ、耐えるように目を瞑りながら足を進める。
あの人が待っているのは、星華だけだ。それならば星華が自ら出向き終わらせるしかない。




