風の到来
その家は山奥の人気のない場所にぽつんと佇んでいたが、木の塀で囲われた敷地内は広く、家の周りには薬草が吊り下げられていた。その隣にで、小さな娘が黙々と作業小屋で薬を煎じている。
昔は美しかったであろうその老女は、星華と燈惺の訪問をわかっていたかのように現れた。背筋をぴんと伸ばし、質素な麻衣だが清潔感がある。
星華の腕輪を見た時、燈惺の様子は明らかにおかしかった。すぐにいつもの冷静な彼に戻っていたが、珍しくあることを頼まれた。
燈惺が持っていた水晶珠は、ある調査している事件の鍵になるものだという。その水晶珠と、星華の腕輪の珠が良く似ているため調べさせてほしいと言うことだった。
絶対に外してはいけないと亡き両親と約束したことを告げると、星華が腕輪をつけたまま調査へ出かけることになった。
燈惺は公主の護衛でほとんど屋敷におらず、ようやく街へ調査に出かけることができたのが五日前だった。
この腕輪を準備したのは、星華の両親としか手がかりがない。まずは燈惺が藍家の叔父夫婦に会いに行ったが、二人は何も知らないと一点張りだったらしい。
そのため、街で腕輪を売っているお店を片っ端から回ったが、探していた情報を得ることはできなかった。ただ古い店を訪れた所、普通の宝飾品ではないと言われ、山奥にいる鶴という目の前の老女を紹介されたのだ。
「話は文で聞いています。そこに座って、見せなさい」
薬草の香りに包まれた庭には大きな机と、その前には長椅子が置いてある。言われた通り腰を下ろすと、鶴は星華の前に立って、その腕輪をつけている左腕を手に取った。
いつもは腕輪を隠す袖が長い下衣を上げると、水晶の腕輪に陽の光が当たり神々しく輝く。
年相応の皺は目立つが、その目は美しく生命力に溢れている。鶴は目を細め、じっと腕輪を見つめたまま視線を反らなかった。
「これは巫具ね」
「巫具とは…何ですか?」
「巫女が使う道具よ。巫女が己の力を込めたり、力を発揮するために使うものもある」
「なぜ、そんなものを…」
巫女は、雲の上の存在だ。王宮に行かなければ、星華の中でも空想の存在で終わっていただろう。
「腕輪をつけられた理由は、両親から聞いていないのよね?」
「…はい。この腕輪が守ってくれるとしか」
「そんな不安そうな顔はしなくていいわ。貴方は高貴な生まれでしょう。高貴なものは、巫具を装飾品としてお守りに使ったりするのよ。両親の形見というなら、両親の言う通り絶対に外さないことね」
隣の燈惺を見上げると、不安そうな星華を慰めるように、頭をそっと撫でてくれた。
その後、鶴との会話は続いたが、期待通りの成果は得られなかった。
両親はなぜ巫具などを自分につけさせていたのか。得体のしれない不安だけ残った。
そんな星華を燈惺は街に連れて行き、ひと時の穏やかな時間を過ごした。目が合うたびに燈惺も穏やかな表情をしていたが、その表情に余計胸騒ぎがした。
「あれ、門の前に誰かいるわ」
陵家の屋敷に着くと、正門の前に見知らぬ女性が立っている。
薄紫色の衣を着て、美しい黒髪を一つに結い上げている。身なりからして、どこかの令嬢のようだ。髪を靡かせ振り返った姿はいきいきとしており、燈惺の姿を見て笑顔の花が咲く。
その女性は勢いよくかけてくると、飛び乗るように燈惺の首へ腕を回した。燈惺の後ろにいた星華は、嬉しそうな女性の笑顔がしっかりと見えた。
綺麗な人だった。すっとした瞳が印象的で、かっこいいと言葉が似合う爽やかさの中に大人の色気がある。
「…礼風、なぜここに?」
「見ない間に、また男前になったわね」
礼風と呼ばれた女性は燈惺の両頬を掴むと、ふっと大人な笑みを見せる。燈惺はすぐにその手を振り払った。
普通の女子ならその冷たい態度に心折れるだろうが、彼女は満足そうに燈惺を見据えている。
「そんなことは聞いていない。なぜ、ここにいるのかと聞いている」
「陵家にお世話になるからよ」
「何だと…」
怒りを含んだ燈惺の声を久しぶりに聞いたが、礼風は恐れることもなくにこやかな笑みを絶やさない。
「医女を続けることで、父と言い争いになって追い出されたのよ。私に行くところなんて、陵家以外ないでしょう?」
「許可できるわけ…」
「そういえば、この前泰惺おじさんと会ったのよ」
礼風の視線は、星華へと移る。きょとんする星華を見て、にっこりと口角を上げる。
燈惺は鋭い瞳で礼風を睨むが、礼風は悪戯を思いついたような茶目っ気いっぱいの表情で燈惺を見上げている。
二人は長く互いを探るように見つめあっていたが、燈惺の方が諦めたように息を小さく吐いた。
「…わかった。ただ、条件がある」
燈惺と礼風の視線が交わされる会話に、星華は全くついていけなかった。
「置いてもらえるのなら、言うことは聞くわ。私のこと説明した方が良いんじゃないの?」
「…幼なじみの陶礼風だ。陶家の令嬢だが、医学を学んでいる」
「礼風って呼んで」
「藍星華です」
真っ直ぐに伸ばされた手を握り、握手を交わす。礼風の気持ちのいいほどの笑顔に、小さなお辞儀で返す。礼風と交わした手を離すと、燈惺は星華の肩を当たり前のように抱き寄せた。
「妻だ。星華に迷惑をかけないでくれ」
礼風はそれを見て、お腹を抱えながら豪快に笑い出した。
「いつから愛妻家になったの?もちろん、仲よくするわよ。星華さんよろしくね」
顔いっぱいの笑顔は、礼風の魅力が詰まっていた。
詠星苑の庭を出ると、中央の庭で燈惺の隣を歩く礼風が見えた。
無表情の燈惺にずっと話しかけている。燈惺の肩に手を置く手が艶めかしい。
無垢な少女の中に、隠しきれない艶やかな色気がある。礼風はそんな女性だった。
礼風が居候し、十日が経った。
陵家と陶家は父親同士が親しく、彼女は幼い頃から幼なじみとして自由に陵家を行き来していたらしく、星華より陵家に詳しい。何より燈惺と親しい。
冷たい人だと、距離を置かれやすい燈惺の跡をめげずに追っている。冷たくあしらわれても、それが二人の昔からの会話とでも言うように全く気にしていないようだ。
そんな二人を見るたび、上手く笑えず逃げ出したくなる自分が嫌になるのだ。
「…星華様、気にしちゃだめです」
隣を歩いていた雨衣が、二人の姿を見た途端に星華の腕を取り逆方向へ進んで行く。
あれだけ燈惺に不信感を抱いていた雨衣も、今は燈惺を星華の夫だと認めている。妻である星華の場所を奪っていったかのような礼風の登場に、雨衣は怒りを抑えきれないと最近ずっと怒っている。
「心配してくれてありがとう。雨衣のおかげで元気になった。ほら」
二人の姿が見なくなると立ちどまり、星華は雨衣の両手を掴んだ。自分のために頬を膨らませている雨衣の顔を見たら、可愛い仕草に自然と笑顔になる。
その笑顔をわざとらしく見せると、雨衣は吹き出したが、すぐにまたその目が吊り上がっていく。
「礼風さんはわがもの顔で屋敷をしきって、ただでさえ忙しい燈惺様を独占し過ぎですよ。燈惺様も星華様をほったらかしであんまりです」
「…二人にとっては私の方が部外者よ」
礼風が陵家を訪れた日、居候させる条件を話すために、礼風は燈惺の部屋へと入っていった。
二人の間に何かある。雨衣もそのことに気付いているから、不安に感じるのだろう。
「睡月様も、蓮承も、礼風さんのことを尋ねると様子が変です。何か隠していると思います」
「きっと燈惺が、口止めしているのね」
おそらく燈惺がずっと星華に隠してきたことを礼風は知っている。
星華にしっかり立ちはだかっている壁が、礼風には元々ないのだ。簡単に礼風は、何かを抱えている燈惺のそばに行ける。
燈惺と出会う前は何も持っていないことが当たり前だったのに。いつからこんなに人を羨むようになってしまったのだろうか。
その夜、星華は寝室を抜け出して秘密の庭園へと向かった。
燈惺はずっと忙しそうで、礼風が来てから庭園で会うこともできていない。燈惺がいなくてもいい、会えなくてもいい、今はどうしてもあの場所へ行きたかった。
燈惺の父が愛する妻のために作った、からくりの星空に包まれたかった。あの星々に、この不安な心を明るく照らしてほしい。
焦る思いを押し込めて、詠星苑の裏にある隠し扉を通り、細い道を進んで行く。
もう少しで庭園につこうとした時、ここ最近で聞きなれた声が聞こえて来た。はきはきと活発で綺麗な声だ。
「本当に素敵な場所ね」
無邪気な笑い声に、それ以上進むことができなかった。
あの秘密の庭園は、燈惺にとって特別な場所だ。
だから、星華もこの場所のことは雨衣にも話さず、燈惺に呼ばれた時だけ向かっていた。勝手に行くなど、慣れないことはするべきではないと自分に呆れてしまう。
私だけが特別ではなかった。
いつしか、燈惺の中で自分だけが特別だと思い込んでいた。
礼風と燈惺が共にあの秘密の庭園にいたと言うことは、星華も知らないもう一つの隠し扉を二人で通ってきたことになる。
『燈惺には忘れられない女子がいるって話』
春搖の言葉が頭の中で繰り返される。
その女子とは、礼風のことなのだろうか。
元々、星華との婚姻は目的のために結ばれたもので、自分へ想いがないとわかりきった状況で、始まった夫婦関係だ。分かっていたはずなのに。
燈惺と交わした口づけや、毎日のように交わされた抱擁は、思い出すだけで星華を幸せにする。その時だけは、燈惺も同じ想いなのかもしれないと淡い夢を抱くことができた。
燈惺の心の中にずっと礼風がいたと思うと、ただ悲しかった。
胸の苦しさにぎゅっと瞳を閉じた後、夜空に輝く星を見上げ、ふっと乾いた笑みを溢す。
全て諦めて手を伸ばしたら触れることができる目の前にあるものだけを慈しんできたつもりだった。
まさか自分が、夜空に輝く星のように…どんなに手を伸ばしても、決して手に入らないものを求める日が来るとは思わなかった。
唇を強く噛みしめ、その場に座り込む。
この十日間、礼風は燈惺が屋敷にいる間は常に傍にいて、ずっと燈惺の世話をしていた。礼風の口から燈惺の幼い頃の話や、思い出話をずっと聞かされた。
礼風にはきっと悪気がない。それがまた彼女の魅力で、風のように周りを巻き込んでいく。
笑顔を忘れぬよう、嫉妬心を必死に隠していたつもりだが…もう限界だ。
目頭と喉の奥が熱くなり、零れ落ちる涙を堪えることができなかった。
「…っ…ばかみたい…」
真夜中の詠星苑の裏庭で、誰にも知られぬよう子供に戻ったかのように涙を零し続けた。




