キッシュランチ、デザート付
前半部分はほぼ製作過程です。
「フイユタージュが余った。どうしよう。ロニュールもあるし、えらい量になるんだけど。8号サイズのパイが4台は作れそう。しかもそれ作ってもまだ余るし。またロニュールが出るし」
ああ、どうしようと時生は溜息を漏らした。
この間ピュイ・ダ・ムールを作るときに仕込んだパイ生地が余っているのだが、久しぶりで加減を間違えてしまいバター2ポンド分も仕込んでしまった。因みに今、彼の手元には仕込んだ量の4分の3のパイ生地と、余りの生地が拳1つ分ほどあった。
ついでに言えばシブーストクリームに使用したカスタードも、小さいボールに1杯分残っている。
「今日のランチはキッシュで、デザートはピティビエにしよう。それだけじゃ量が足りないし、ガレットも付けるか。なんか胸焼けしそうなメニューだけど、まあいいや」
本日のランチメニューを決めた時生は、早速材料の準備をした。まずはカスタードの重さを量り、それと倍量のアーモンドクリームを作る為にバター、卵、砂糖、アーモンドパウダーの代わりのマンドルラ粉の分量を計算した。アーモンドクリームは基本、すべての材料を同量で作る。作りなれた人は、そこからバターの量を減らし少し硬めに仕上げたり、卵の量を増やしてふんわり仕上げたりする。砂糖の分量をいじることもあれば、アーモンドパウダーを減らして小麦粉を入れることもあるだろう。
時生はレシピもないことだしと、今回は基本に忠実に作ることにした。バターを量り終えるとボールに入れ、低温に温めたオーブンへと放り込んだ。こうすることでバターが早く柔らかくなり、直火にかけるよりも状態がずっと良いものになる。
それからパイ生地の3分の1の量とロニュールをそれぞれ2mm程度の薄さにのばし、型に合わせて生地を切り出した。それを用意しておいた型に敷き込んだら、その上に紙を乗せて焼成中に生地が浮いてこないよう、重石のファジョロ豆を生地の高さいっぱいまで入れた。
時生は次にバターが入ったボールをオーブンから取り出すと、パイ生地を焼くために温度を高温に設定した。
その間に木箱からパタータをいくつか取ると、鍋で沸かしておいた湯の中に皮ごと入れた。
それから柔らかくなったバターをクリーム状にし、砂糖を加えてしっかりと擦り混ぜた。それに溶いた卵を少しずつ加えながら、さらにしっかりと混ぜ、マンドルラ粉を振るい入れた。それが馴染むまで軽く混ぜれば、アーモンドクリームの出来上がりだ。
作ったばかりのクリームは良く膨らむので、それをボール全体に擦り鉢状にして常温で放置した。こうすることでそのまま使うよりは、クリームが落ち着き浮きが低くなる。まあそれは数時間置いておけばの話で今回はすぐに使ってしまう為、しないよりはましかなといった程度なのだが。
そうこうしている内にオーブンが温まったようなので、時生はキッシュの型をオーブンに入れた。
それから彼はチッポラを薄切りにし、それをキツネ色になるまで炒めた。これは後でソースにも使う予定なので、その分は別の小鍋に取り分けておいた。
次に時生はキッシュのアパレイユを作り始めた。ボールに卵を割りいれて溶き、そこに牛乳をたっぷりと注いで混ぜ合わせた。キッシュだけで食べるなら生クリームが入っていた方が濃厚で美味しいが、今回は他が濃いめの味なので入れないことにした。塩と胡椒を加えて味を調えると、まだ使用しないのでこれも作業台の隅に置いた。
ふと時生がオーブンの中を見れば、パイ生地の縁が薄らと色付きだしていたのでオーブンから出し、乗せていた豆と紙を取り除いた。
それから茹でていたパタータを鍋から取り出し、熱いうちに皮を剥くとそれを空の鍋に戻して潰しながら弱火で水分を飛ばした。それに塩と少しのバターを加えて練った。それを空焼きしたパイ生地の底に厚めに塗り、炒めたチッポラをたっぷりと乗せ、最後にアパレイユを生地の高さぎりぎりに流し込み再びオーブンに入れた。
後は手の掛かるものはピティビエだけなので、時生はさっさとやってしまおうと予め室内に出しておいたカスタードを滑らかになるまで戻し、置いていたアーモンドクリームにそれを少しずつ加えながら混ぜていった。これでクレーム・フランジパーヌの完成だ。
それから彼は残しておいたパイ生地を少し厚めに伸ばして切り分け、合計8枚の四角い生地を作った。
それをもう一枚のオーブンプレートに4枚だけ並べ、その上にフランジパーヌを中心から渦巻き状に余白を残して絞った。それから生地の縁に刷毛で水を塗り、残りの生地を4つ折りにして手に持つとフランジパーヌを絞った生地の上に、空気を抜きながら徐々に広げて被せていった。
彼はそれを出来るだけ余りが出ないようにしながら、円形に切り取るとクリームが入っていない生地の部分を指で軽く押した。それから生地の縁にナイフの背を等間隔に押し付けた。これをしないと焼成中にパイの中身が側面からはみ出してしまうのだ。
次に彼は焼き色がよくなるよう、溶いた卵を生地の上に万遍なく塗った。そこからは手早くしないと卵が乾いてしまうので、時生は少し急いで生地の表面に浅く切れ込み模様を入れた。まず十字にナイフを走らせ、端から中央の点を通り縦長のS字を4本入れた。そうすると4枚の葉のような形が出来、その中に真っ直ぐな筋を入れていくと月桂樹の模様になる。
ピティビエと言えば車輪を表現した流線模様が殆どだが、時生はこの模様を入れるのが驚くほど下手くそだった。したがって今回は急ぐこともあり、仕方がなしにピティビエと良く似たガレット・デ・ロワに多い月桂樹の模様を入れることにした。
葉と葉の間に丸みがある逆さのV字に切れ込み入れ、そこにも筋を入れて葉が8枚重なったよう見える模様を描いた。4台全てに模様を入れ終えると、ピティビエの中央とそれとは別に4か所に小さな穴を開けた。これは浮き上がりを均一にする為でもあるし、焼成中に中身が爆発しないようにする為でもあった。
そうこうしている内にキッシュが美味しそうな焼き色になっていたので、時生はプレートを取り出してラックに差し、すかさずもう1枚のピティビエが乗ったプレートをそこに入れた。
「ああ、ようやく手の掛かるのが終わった。でもあとガレットの生地とキッシュのソースも作らなきゃ」
疲労を隠し切れない大きな息を吐くと、時生はようしと大声を上げて気合を入れ直した。
それから彼はボールにサラチェーノ粉と塩を加えて振るい、そこに水と卵を加えて混ぜてガレットの生地を作った。それは取り敢えず、すぐには焼かないので冷蔵庫に入れて休ませておくことにした。
次に取り分けておいたチッポラを再び火にかけ、それに豚の挽肉を加えて炒めた。挽肉に火が7割程通ったところで、スパイスとポモドロの水煮、更にポモドロのペーストを入れて煮込み、その量が半分になるとヨーグルトを加えて更に煮込んだ。最後に塩と胡椒で味を調えればソースの完成だ。
「ああ、疲れた。珍しく頑張り過ぎた。昨日の夜に焼き野菜のマリネ仕込んで本当によかった。もうそれとサラダ付け合せにしよう」
ピティビエも焼き上がり一段落した時生は、作業台を拭いて綺麗にするとそこに腕を組んで立ったまま突っ伏した。もう夜の仕込みまで手の掛かる物は何も作りたくない。今の彼はそんな気分だった。
「こんにちは、パンの配達に来ました!」
煩い位に音を立てて店の扉が勢いよく開くと、小さな女の子が元気よく挨拶しながら店に入って来た。彼女は顔が隠れるくらいにパンが沢山詰められた籠を抱え、危なっかしくカウンターまで歩いて行くとその籠を厨房から出て来た時生に手渡した。
「やあ、リーチャ。今日は君が配達してくれたのか。悪いね、ご苦労さん」
時生は町にあるパン屋から様々なパンを卸してもらっている。彼女はそこの末娘だ。学校が休みの日には、店を手伝っているらしい。ここのパンは時生が自分で作るよりも全然美味しいし、何よりも楽なので彼は重宝していた。
「ねえトキ、今日のランチはなに?」
リーチャは客席に腰かけると、輝いた目をして時生にそう尋ねた。時生は彼女にパンの代金を渡すとキッシュランチでガレットもあるよと答えた。リーチャが配達するときは、いつもここでランチを食べて帰る。それが彼女のお手伝いに対するお駄賃で、その場合は時生がパン屋に支払う代金からランチ代を差し引くのが決まりになっている。
「へえ、ガレットってなに? 美味しいの?」
「うん。簡単な料理だけどね、俺は結構好きかな。サラチェーノの粉で作った薄い生地に、卵とか肉とか野菜を包むんだけど、今日は卵とアフミカータ、それにポモドロとフォルマッジョにしたんだ」
興味津々のリーチャにそう答えながら、時生はフライパンを火にかけた。温めている間に冷蔵庫からポモドロとアフミカータの塊を取り出し、ポモドロはヘタを取って薄く輪切りに。それからアフミカータは2枚切り出してさらに半分にした。ちなみにアフミカータはベーコンとほぼ同じものだ。
フライパンが温まるとそこにガレット生地を流し込み、広げたら火が通るまで待つ。焼き色が付かないように気を付けながらひっくり返し、その中央に卵を落としてそれを囲うようにアフミカータを置いていく。更にその上に卵を割らないようにそっとポモドロの輪切りを置き、この世界のチーズの一種である削られたフォルマッジョをたっぷりと掛けたら、丸い生地を折って四角く形成する。
ガレットはフライパンに蓋をして蒸し焼きにするので、その間に時生はサラダ用の葉野菜を洗って千切り皿に盛りつけた。それから仕込んでおいたマリネを横に添え、少し冷めたキッシュを型から出すと適当な大きさに切り分けた。それがちょっと温くなっていたので、時生は一切れを丸鉄板に乗せオーブンに入れて温め直すことにした。
次にピティビエも適当にカットし、これも丸鉄板に乗せた。後で温め直して熱々のをアイスクリームと一緒に出そう。本来では有り得ない食べ方だが、絶対に美味いに決まっている。
そうこうしている内にガレットがいい感じに焼けて来たので、時生はフライパンから皿に盛りつけた。それからキッシュをオーブンから出し、それをガレットの横に置いた。キッシュの上には先程作ったソースを添える程度にかけ、サラダには自家製フレンチドレッシングをかけた。
「はい、キッシュランチお待たせ。ていうか、ガレットが主役になったかなこれ。まあいいや」
あまりのガレットの存在感に時生は少し失敗したなあと思いながら、リーチェの前に料理を出した。それから届いたばかりのパンを食べやすくスライスし、オリヴァ油と共に料理の横に置いた。
「わあ、美味しそう!」
「ガレットは好みで塩胡椒してくれ。デザートもあるから」
リーチェは時生の言葉に頷くと嬉々としてフォークとナイフを取り、早速ガレットを切り分け頬張った。薄いけれどほわっとした生地にフォルマッジョとアフミカータの塩気と脂が旨味となって広がり、それから半熟卵のとろりとした黄身がそれをまろやかに包んだ。すぐさまポモドロのほど良い酸味と甘味を感じ、それが後味をさっぱりとさせてくれた。
「美味しい! 塩も胡椒もなくても大丈夫だよ!」
満面の笑みでリーチェは時生に感想を言うと、次はキッシュに手を伸ばした。崩れやすいそれを気を付けて口に入れると、溶けるような柔らかい卵の味に、炒められたチッポラの甘味と少しだけ残ったしゃりっという食感がよく合った。またそれだけだと軽すぎて物足りなく感じるが、底に入っているパタータのペーストがそれを補っていた。
ガレットが濃厚な分、このキッシュは優しい味わいだ。けれどもポモドロの旨味が凝縮されたソースを付けると、たちまちそれは主張の強いハッキリとした味になる。2通りの食べ方があるこのキッシュは、最後まで飽きずに食べることが出来そうだ。
「ポモドロばっかりになっちゃたんだけど、大丈夫だった? 全部酸っぱくない? ドレッシングもフレンチにしちゃったし」
料理をリスの様に頬張るリーチェに時生はそう尋ねた。作ることにばかり集中していたが、気付けば色々と材料や味が被ってしまっていた。胸焼けしそうなメニューを何とかさっぱりさせようと考える余り、ガレットとキッシュにポモドロを使用したが、昨晩仕込んだ付け合わせのマリネにも焼いたポモドロを入れていたのを彼はすっかり失念してしまっていた。ポモドロはこの国ではオーソドックスな食べ物で、それを使用したソースは日本で言うところの醤油のようなものなのだが、料理の大半に入れてしまっては使い過ぎだろう。
時生はそれに後悔しながら、ピティビエが乗った丸鉄板をオーブンへと入れた。
「うん。確かにそうだけど、あたしはポモドロ嫌いじゃないし、全部味付けが違うから飽きないよ。ドレッシングはポモドロと別の酸味だから好き。でもマリネとこれは似てるかなあ」
ガレットのポモドロは生のものが使われていて爽やかな酸味であったし、キッシュソースのポモドロは煮込まれてギュッと味が濃くなったもので酸味は優しくどちらかといえば、それよりも旨味が強いので特に気にならなかった。
サラダのドレッシングは、ウヴァの酢にオリヴァ油。それから塩と胡椒で作ったシンプルなもので、それが野菜の美味しさを引き出していた。
野菜のマリネは焼いたズッキーナが柔らかく甘味が増し、ポモドロも熱を通したことで少しとろっとした食感になってまた別の美味さがあった。けれどもマリネ液がドレッシングと同じ調味料で出来ている為、リーチェは食べ進めていくうちに飽きが来てしまったと感じた。
「そっかあ。ありがとな。ちょっと次のお客さんからは、ランポーネの酢でドレッシング作ることにするよ。ソイアの醤油もちょっと加えようかな」
「その方が絶対に良いよ、あのお酢あたし大好き! ちょっと甘い香りがいいよね!」
リーチェはランポーネの酢を絶賛しながらも、料理を食べる手は止めなかった。育ち盛りだからか、あれよあれよと言う間に彼女は全ての料理を平らげ、最期に自分の家のパンをたっぷりとオリヴァ油に付けて食べた。
「はい、デザートのピティビエお待たせ。今日はアドバイスも貰ったし、俺からのお使いのお駄賃で豪華に仕上げたからね」
時生はすっかりと温まったピティビエに、スプーンでフットボール型に掬ったアイスクリーム、それにランポーネやフラゴラにミルティロといった果物を彼女が大好きなランポーネの酢と砂糖で混ぜ合わせたフルーツマリネを即席で作り添えて出した。
「わあ、すごい!」
「本当はピティビエって、こんな食べ方しないんだけど今日は特別な」
リーチェは綺麗な模様が入ったサクサクのパイにフォークを入れ、中に入っている黄色いクリームも一緒に掬うと大口を開けてそれを入れた。サクサクしたパイにクリームと言うよりはバターケーキの様な食感で、でもとてもしっとりとしたそれが絶妙だった。
それに熱々のピティビエに溶けかけのアイスクリームを一緒に食べれば、その水分を吸ったパイがしっとりとして中身のクリームとよく馴染むし、そうでない部分のパイがサクサクとした食感で堪らない。それに素朴な味わいのこの菓子が、アイスクリームの濃厚さで少しばかり洗練された菓子に変化する。これは堪らなく美味かった。
「トキ、中身のこれってお芋なの?」
リーチェは中のクリームが、バタタ芋のような味だと思った。だから蒸かした芋をペーストにし、ケーキに仕立てたのではないか。そう感じた。表面の模様以外は凝った所がなく、素朴な味わいで今まで食べた事のない物なのに、すんなりと舌に馴染むのだから不思議な菓子だ。
「いいや。マンドルラの粉とバター。それに卵と砂糖で作ったクリームだよ。あ、今日はカスタードクリームっていう、卵と牛乳で作ったクリームも混ぜてるんだけどね。普通はマンドルラのクリームだけだよ。俺もこれを最初に食べた時は、芋だと勘違いしたんだ。ほっくりしてて素朴な味だしね。気に入ったのなら作り方を書いてやろうか? 親父さんに作ってもらいなよ」
日本で初めてこのお菓子を食べた時、時生は正直言って驚いた。あの頃の彼はフランス菓子に舌が慣れていなかったこともあり、甘くて濃い菓子達にうんざりしていた。なにせ通っていた製菓学校で出てくる菓子はバタークリームがたっぷりだったり、グラスアローという砂糖が白く結晶化した糖衣に覆われていたりと散々だったのだ。どうせこれもそんな菓子なんだろうと、当時の彼は製作者に対し失礼な態度で食べたのだが、これが美味かった。それまでの彼の中にあったつまらない固定概念を吹き飛ばすような美味さだったのだ。
「うん、書いて! あとね。ガレットとキッシュも!」
「そんなに? 今すぐには書けないから、明日親父さんが配達に来た時に渡しておくよ」
時生はあれもこれも書いてくれと言うリーチェに少し呆れたが、そんなに自分の作った料理が気に入ってくれたのかと思うと嬉しくなり、いくらでも書いてやろうという気分になった。
「あ、トキ! 私の好きなランポーネのお酢使ってくれたの?」
フルーツマリネを食べ、それにランポーネの酢が使われていることに気付いたリーチェは時生にありがとうと言った。子供らしい弾けるような彼女の笑顔はとても可愛らしく、時生はこんな娘がいたら楽しいだろうなあと想像した。まあまず彼には妻がいないので、そこから始めなければいけないわけだが。
ああ。でもそれを言うと将軍が煩そうだ。
時生は思わず苦笑した。嫁と子供が欲しいなんて誰かにうっかり言ってしまえば、どこからか聞きつけたカルロが嫁候補を連れてやって来るだろう。それだけは絶対に勘弁して欲しい。時生はその事を想像するだけで、ぶるりと身震いをした。
「……どうしたの、トキ? なんか嫌なことあった?」
「ああ、何もないよ。ただいらない心配しちゃっただけ」
そうならないように気を付けるよ。
時生はリーチェにそう言って溜息を漏らした。それから彼はここで店をやる限り、嫁と子供は諦めようと己に言い聞かせた。
彼のその様子をリーチェはよく分からず、ただただ首を傾げてデザートを食べた。
バタタ芋=さつま芋
ランポーネ=ラズベリー
フラゴラ=苺
ミルティロ=ブルーベリー
ズッキーナ=ズッキーニ
サラチェーノ=そば粉
フイユタージュの分量については、適当なので実際にこれだけのケーキとキッシュは焼けないかもしれません。




